はじめに
いいチョイスだね!マンが日本人作家に与えた影響も要注目だよ。
どうも、Yuです!
トーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)はドイツで最も有名な作家の一人ですが、日本語訳もたくさん出ているので、日本でも沢山読まれていますね。
ではさっそく、マンの生涯と彼の作品について見ていきましょう。
トーマス・マンとは?
20世紀を代表するドイツ人作家であるトーマス・マンですが、彼の主な作品は『ブッテンブローク家の人々』(1901)や、『ヴェニスに死す』(1913)などなど。1929年にはノーベル賞を受賞しています。
ナチス時代にアメリカに亡命したマンは、作品執筆やラジオ放送などを用いて打倒ナチスを呼びかけました。
作家として
北ドイツの都市リューベックに生まれたトーマス・マン。彼の両親が熱心な読書家であったことから、幼い頃から本に親しみながら育った彼は、高校を中退後に保険会社にて働きながら執筆を行っていました。
1893年から保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説を描き続けたマン。処女作品である短編小説『転落』が、ライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載されます。
1901年にマン自身の一族の歴史がモデルとなった長編『ブッテンブローク家の人々』(1902)が発表されると、この作品は非常に多くの読者を集め、マンは一躍ベストセラー作家となることに。
カタリーナとの出逢い
マンはユダヤ系数学教授の娘カタリーナと出逢い、1905年にマンは彼女と結婚。二人の間には6人の子供が生まれますが、後にカタリーナは結核のためサナトリウム(閑静で空気の綺麗な場所に建てられる療養施設)にて療養することに。
療養中の様子を妻から聞くこととなったマンは、彼女の話から着想を得て、1913年に『魔の山』の執筆を始めます。当初は短編で発表される予定だったこの作品ですが、のちに構想が膨んでいったため、完成したのはずっと先の1923年でした。
亡命生活
ナチスが台頭した1930年、マンは講演『理性に訴える』を行ってナチスの危険性を論じ、彼はナチスの敵としてみなされます。
1933年にナチズムの思想にそぐわない書物が焼き払われると(ナチス・ドイツの焚書)、マンはミュンヘンの文芸諮問委員会を脱退。
スイスにて亡命生活を送るマンでしたが、1938年にアメリカに移住することに。1940年から1945年にかけて、マンは定期的にBBCのラジオ番組『ドイツの聴取者よ!』を通じてドイツ国民に対し警鐘を鳴らし続けました。
作品たち
『ヴェニスに死す』(1911)
主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは50歳過ぎの小説家。
旅行先のヴェネツィアにて彼は、14歳の美少年タッジオに出会い、彼の虜となります。
コレラがヴェネチアにて蔓延しはじめてもなお、タッジオの美に魅入られたアッシェンバッハは現地に残ることを選択しますが…
マンはこの作品を「品位喪失の悲劇」と呼んでいたらしく、芸術家として名声を得た主人公が少年の美しさゆえに破滅に向かう様子は、なんとも言い難い印象を与えてくれます。
彼の初期作品の中心テーマが、「市民と芸術家の対立」という点にあったことにも注目したいですね。
とにかく、ヴィスコンティの映画で登場するタッジオはイケメン。
『魔の山』(1924)
主人公ハンス・カストルプは、スイスの高山にあるサナトリウムで療養中の従兄弟ヨアヒムを訪ねます。
当初3週間のみの滞在を予定していたカストルプでしたが、自身も結核を患っていることが発覚し、以後7年間の療養生活を送ることに。
サナトリウムで暮らす個性豊かな人々との交流の中で、カストルプは成長していきますが…
この作品は当時の読者の大きな反響を呼び、刊行から4年後には10万部の売り上げが記録され、現在までに27カ国語に翻訳されているのだとか。
さいごに
ここまで、ざっくりとトーマス・マンの生涯と作品について見てきました。僕がマンの作家として優れたところを一つに絞って挙げるとするなら、彼の作品に昇華された主題の多層性だと思います。
例えば亡命中にマンが著した『ファウスト博士』(1947)では、ファウスト伝説*1を下敷きに作品が書かれているだけではなくて、ファシズムやニーチェに対する批判、さらには神学や音楽学等の分野に関して幅広く、そして深く論じられていきます。
そして、三島由紀夫や大江健三郎といった有名作家たちへの影響力も見逃せません。例えばマンの最も有名な作品『魔の山』(1924)は、村上春樹の『ノルウェイの森』(1987)の世界観とリンクしているので、どちらも読んでみると面白いかもです。
最後まで読んでくれてありがとう!
*1:15世紀ごろのドイツで実在していたとされる人物が、悪魔と契約を結んで放埒の限りを尽くし、結局地獄に落ちるというもの。