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どいつの話。

文化、文学、暮らし、その他いろいろ…

ナチスにペンで抗う作家 トーマス・マン

 はじめに

 

トーマス・マンの『魔の山』を読んでるんだ〜

いいチョイスだね!マンが日本人作家に与えた影響も要注目だよ。

 

どうも、Yuです!

トーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)はドイツで最も有名な作家の一人ですが、日本語訳もたくさん出ているので、日本でも沢山読まれていますね

  

ではさっそく、マンの生涯と彼の作品について見ていきましょう。

 

 

トーマス・マンとは?

 

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20世紀を代表するドイツ人作家であるトーマス・マンですが、彼の主な作品は『ブッテンブローク家の人々』(1901)や、『ヴェニスに死す』(1913)などなど。1929年にはノーベル賞を受賞しています。

 

ナチス時代にアメリカに亡命したマンは、作品執筆やラジオ放送などを用いて打倒ナチスを呼びかけました。

 

作家として

 

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北ドイツの都市リューベックに生まれたトーマス・マン。彼の両親が熱心な読書家であったことから、幼い頃から本に親しみながら育った彼は、高校を中退後に保険会社にて働きながら執筆を行っていました。

 

1893年から保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説を描き続けたマン。処女作品である短編小説『転落』が、ライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載されます。

 

1901年にマン自身の一族の歴史がモデルとなった長編『ブッテンブローク家の人々』(1902)が発表されると、この作品は非常に多くの読者を集め、マンは一躍ベストセラー作家となることに。

 

カタリーナとの出逢い

 

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カタリーナ・ヘドウィク・マン

 

マンはユダヤ系数学教授の娘カタリーナと出逢い、1905年にマンは彼女と結婚。二人の間には6人の子供が生まれますが、後にカタリーナは結核のためサナトリウム(閑静で空気の綺麗な場所に建てられる療養施設)にて療養することに。

 

療養中の様子を妻から聞くこととなったマンは、彼女の話から着想を得て、1913年に『魔の山』の執筆を始めます。当初は短編で発表される予定だったこの作品ですが、のちに構想が膨んでいったため、完成したのはずっと先の1923年でした。

 

亡命生活

 

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ナチスが台頭した1930年、マンは講演『理性に訴える』を行ってナチスの危険性を論じ、彼はナチスの敵としてみなされます。

 

1933年にナチズムの思想にそぐわない書物が焼き払われると(ナチス・ドイツ焚書)、マンはミュンヘンの文芸諮問委員会を脱退。

 

スイスにて亡命生活を送るマンでしたが、1938年にアメリカに移住することに。1940年から1945年にかけて、マンは定期的にBBCのラジオ番組『ドイツの聴取者よ!』を通じてドイツ国民に対し警鐘を鳴らし続けました。

 

作品たち

 

ヴェニスに死す』(1911)

 

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主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは50歳過ぎの小説家。

旅行先のヴェネツィアにて彼は、14歳の美少年タッジオに出会い、彼の虜となります。

 

コレラヴェネチアにて蔓延しはじめてもなお、タッジオの美に魅入られたアッシェンバッハは現地に残ることを選択しますが…

 

マンはこの作品を「品位喪失の悲劇」と呼んでいたらしく、芸術家として名声を得た主人公が少年の美しさゆえに破滅に向かう様子は、なんとも言い難い印象を与えてくれます。

 

彼の初期作品の中心テーマが、「市民と芸術家の対立」という点にあったことにも注目したいですね。

 

とにかく、ヴィスコンテの映画で登場するタッジオはイケメン。

 

魔の山』(1924)

 

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主人公ハンス・カストルは、スイスの高山にあるサナトリウムで療養中の従兄弟ヨアヒムを訪ねます。

 

当初3週間のみの滞在を予定していたカストルプでしたが、自身も結核を患っていることが発覚し、以後7年間の療養生活を送ることに。

 

サナトリウムで暮らす個性豊かな人々との交流の中で、カストルプは成長していきますが…

 

この作品は当時の読者の大きな反響を呼び、刊行から4年後には10万部の売り上げが記録され、現在までに27カ国語に翻訳されているのだとか。

 

さいごに

 

ここまで、ざっくりとトーマス・マンの生涯と作品について見てきました。僕がマンの作家として優れたところを一つに絞って挙げるとするなら、彼の作品に昇華された主題の多層性だと思います。

 

例えば亡命中にマンが著した『ファウスト博士』(1947)では、ファウスト伝説*1を下敷きに作品が書かれているだけではなくて、ファシズムニーチェに対する批判、さらには神学音楽学等の分野に関して幅広く、そして深く論じられていきます。

 

 

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

 

 

そして、三島由紀夫大江健三郎といった有名作家たちへの影響力も見逃せません。例えばマンの最も有名な作品『魔の山』(1924)は、村上春樹の『ノルウェイの森』(1987)の世界観とリンクしているので、どちらも読んでみると面白いかもです。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

*1:15世紀ごろのドイツで実在していたとされる人物が、悪魔と契約を結んで放埒の限りを尽くし、結局地獄に落ちるというもの。

どうして僕がドイツ語を?

はじめに

 

ドイツ語を学ぶ意味なんてあるのかな?

この問いについて、僕なりに考えてみたよ。

 

どうも、Yuです!

大学からドイツ語を学び始めた僕ですが、そもそもなぜこの言語を学び始めたのかをよく友人から訊かれます。

 

入学当初、僕が学部時代に通っていた大学が提携していた交換留学先が多くなく、その中で唯一魅力的だったのがオーストリアウィーン大学だったから…という単純な理由だったのです。

 

世界史が好きだった僕は、ヨーロッパへの関心も強めでした。さらに、ウィーン大学から毎年送られてくる留学生との交流も僕を刺激し、「さらにドイツ語を上達させてコミュニケーションに磨きをかけたい!」という意欲も湧きました。

 

あれからほぼ10年。

ドイツ語で挨拶すらろくにできなかった僕が、今こうしてドイツ語を教えながらドイツの教授のもとで文学研究をしているなんて。10年間ドイツ語を学び続ける間に、その目的も少しずつ形を変えてきたと思うのです。

 

ということで今回は、ドイツ語講師・文学研究者としての立場から、そもそも僕がなぜドイツ語を学ぶのかについて。ちなみに、今回のお話はいつもと違い、とても私的なものになると思います。

 

 

ドイツ語のメリット?

 

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ドイツ語を学ぶことに関する「メリット」ってなんでしょう?

 

最新の学術系雑誌が読めるやら、オクトーバーフェストが楽しめるやら、ドイツ人作家の文学作品を原文で楽しめるやら…たくさんあります。でも正直なところ、僕がこれらのメリットを意識しながら今までドイツ語に取り組んできたかというと、かなり怪しい。純粋に楽しいから…と考えてみたりしますが、これも実は少し違うかも。

 

確かにドイツ語を学び始めた頃は、「ドイツ人と仲良くなりたい!」という強い願望を感じていた僕。時間とともにドイツでの交友関係がスムーズに結べるようになると、この言語を学ぶ理由が全く別ものになっていることに気付かされるのです。

 

僕にとっての、ドイツ語のメリットってなんだろう?

 

テクストを原文で!

 

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僕が大学一年生のころ、当時教わっていた英語のネイティブの先生の言葉が、僕の純真な心に刺さりました。僕は直接聞いたわけではなく、友人から聞いたのですが。そのネイティブの先生は、僕がドイツ文学を専攻しようとしていることについて、こう言ったそうです。

 

トーマス・マンなんて、英語で読めるじゃん?

 

そのとき、10年前のひよっこな僕は本気で思ったのです。

トーマス・マン原文で読まなきゃ意味がないじゃないか!」って。

今思えば、作品を楽しむのにわざわざ原文で読む必要はないし、マンの作品なんて日本語訳も豊富にあって英語すら必要ない。でもこの先生の発言を耳にしたことが、ドイツ語を学ぶ意義について考え始めるきっかけになったのかと思います。

 

確かに、テクストそのものが含む作者の「思考」を汲み取るために、原文を丹念に読み込むことってすごく大事だと思います。だけど、僕がドイツ語を学ぶ本当の意味って、何かを読んで理解を深めることにあるのではなくて、もっと違うところにあるのです。

 

文学と会話力

 

本来、僕は文学をやろうと思ってドイツ語に手を出したわけではないことはすでに書きました。文学は単にドイツ語を上達させるためのマテリアルであって、文学そのものに強い関心があったわけでもない。

 

この考えって語学習得にとって効率的なように見えて、実は遠回りなのです。なぜって、テクストを読むという作業は、ドイツ語を主体的に運用することとは違う次元にあるうえ、大学のゼミなどで読む作品の多くは18世紀から19世紀ごろの古い「死んだ」文章。ドイツ語だけをマスターしたいのなら、一番効率的なのは3ヶ月くらいで基礎文法を詰め込んでドイツに飛ぶこと。ひたすら映画やポッドキャストで耳を慣らし、語彙を増やすこと。そして、友人をたくさん作ること。

 

少し脱線しましたが、とにかく「毎日ドイツ語に触れれば、いつかはペラペラに...」と信じていた僕は、健気に文学作品に出てくる単語を覚えることに必死でした。文学自体がもつ価値や意味についてまでは考えず、ただただ上手に、カッコよく話せるようになりたかった。

 

しかし、初めての交換留学の中で、文学に対する意識がガラッと変わることに。

 

ツールとしてのドイツ語

 

 

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ウィーン大学への交換留学にいけることが決まり、早速現地のドイツ文学科の授業に参加することに。予想通り、先生が何を言ってるのかわからずじまい。それでも、レコーダーを購入して教壇の上に置かせてもらい、何度も繰り返し聞いてなんとか内容を把握してました。そのおかげで口頭試験なんかも無事通過できてよかった。

 

その当時は僕も学部の四年生ということで、まわりの友人は就活ラッシュ。ドイツ語を活かせる仕事がいいと感じていた僕は、留学期間中にある程度は語学力を一定までブラッシュアップさせたかった。でも、なかなか劇的に伸びないんですよね、語学力は。ということで、修士過程までは行ってみようかな...と漠然と考えていました。

 

そんな中、オペラや演劇の修行のためにウィーンで学ぶ人たちと知り合い、彼らがドイツ語を一つの「ツール」として用いているのを見ました。以来、自分もドイツ語だけに力を注ぐのではなくて、この言葉を一段階より大きなことに用いてみたいと考えるように。今思えば、語学が生きるための「道具」であるなんて、当然だと思いますが。

 

ただこの考えは、当時の自分にとっては何故かとても新鮮でした。おそらく、ドイツ語の習得自体が目標でありすぎたためでしょう。それから、自分の語学をすぐにでも何らかの形で活用したいという気持ちが湧きました。実際にはその頃、翻訳のアルバイトなどもしていたため語学を仕事道具として使ってはいたのです。でも、もう少し別の次元のものにドイツ語でアプローチしたかった。

 

文学への意識

 

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ウィーン大学にて他の学生とともに文学を学ぶ機会を得られたことは、僕の中に文学への新しい視点を備えてくれたように思います。彼らにとっては、ドイツ語のテクストは言葉を学ぶものではなくて、そこから考えを汲み取っていくもの。ゼミや授業に参加して学生らと交流するたびに、僕が日本にいた頃に読んでいた文学への視点が変わっていったと思います。議論についていけることは無かったけれども。

 

これに加えて、当時ウィーン大学の博士課程に在籍していた日本の先輩に、彼の博士論文に関する口頭試問会に誘ってもらったことも大きかったかもしれません。彼がズラッと並ぶ教授陣に対して、トラークル*1について論じる姿はただただカッコ良かった。内容は当時の自分にとって(今も理解できるか不安だけど)難しく、全く把握できませんでしたが、確かにあのとき、「文学研究って魅力的だな。」と感じました。見た目から入ったって良いじゃないか!(笑)

 

研究の意義

 

先に書いた通り、翻訳や語学講師以外の分野でドイツ語を使いたかった僕。この先輩や指導教官の勧めもあり、修士課程にだけでなく博士課程にまで進み、文学研究に専念することになりました。現在では、13世紀から17世紀の文学作品を中心に研究を進めています。

 

この時代の作品、特に16世紀から17世紀のものは、日本ではほとんど研究が進んでおらず、自然と翻訳も少ないのです。正直、普通のドイツ語の文章よりも数倍は難しい...。ですが、この難しさゆえに、僕はこの時代の文学作品に対して強い魅力を感じるのです。

 

理由は簡単で、この分野での僕の研究意義が確かなものという確信があるから。僕にとってのドイツ語学習とは、作品を理解するためのツールを強化するだけでなく、遥か昔の時代・地域の人々の文化にアクセスするための手段を増やすものなのです。そして、僕に研究を進めることの意義や楽しさを教えてくれるもの。

 

僕の研究を通して、いつかこの時代の文学作品に関心を抱く人たちが増えてくれたら嬉しい。

 

さいごに

 

僕が昔住んでいた学生寮で、第二言語を学ぶ意義について書かれたポスターを見つけました。そこには、「言語を学ぶことで、新しい視野を獲得できる。」といった類の文章が。確かにその通りなのです。僕の全く知らなかった世界が、ドイツ語のレベルが高まるにつれ、開けてきたように思います。このことは文学研究の中で、僕がドイツ語を学ぶことに対して感じるメリットとも密接に結びつきますよね。

 

少し長くなってしまいましたが、ここまで話してきたことを台無しにする覚悟で一言。僕は語学に取り組む際に、メリットについて深く考える必要は全くないと感じるようになりました。たぶん一番大事なのは、「なんか面白そうだな」という興味から、「あ、これ自分にあってる気がする」という感覚への移り変わりなのかもしれません。語学って、ゆくゆくは学ぶ人の血となり肉となっていく、栄養のようなものなのですから。たぶん。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

*1:ゲオルク・トラークル(Georg Trakl、1887- 1914)ドイツ表現主義を代表するオーストリアの詩人

ヨーロッパ世界の生みの親! カール大帝

 

はじめに

 

カール大帝ってとても有名だけど、一体どんなことをした人なの?

彼が皇帝になったことで、ヨーロッパ世界が生まれたとも言われているんだ。

 

どうも、Yuです!

今回はかの有名なカール大帝について紹介していきます。

 

世界史でお馴染みのカール大帝は、フランク王国の王様。(在位768-814

このフランク王国は、751年から王位を継承したカロリングのもと、周辺のゲルマン諸部族を支配下に入れながら拡大していった国。

 

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この王国の支配地域はカール大帝の時に最大に達しました。

 そんな有能な彼の生涯について、今週は詳しくみていくことにしましょう。

 

 

カール大帝とは?

 

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フランク王国ピピン3世のもとで生まれたカール。 彼の出生については不明な点が多く、様々な議論が交わされてきました。特に問題となっているのは彼の生まれた年。

 

カールは742年に生まれたとされていますが、彼の父であるピピンと正妻ベルトレドの結婚は744年以降と一般的に考えられているのです。

 

この論に従えば、カールは私生児として生まれたことになり、彼とのちに生まれたベルトレドの息子カールマンとの険悪な関係にも説明がつきそうですね。研究によっては、カールが747年や749年に生まれたとする論もあるみたい。

 

カールの戴冠

 

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800年のクリスマスにめでたく皇帝となったカール。

 さて、カールの皇帝戴冠を可能にしたものは何だったのでしょうか。

 

その要因の一つが、カール率いるフランク王国が獲得してきた広大な領土でした。

 

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画像出典: https://sekainorekisi.com/world_history/カール大帝シャルルマーニュ)/

 

774年にイタリア北部のランゴバルト王国を滅ぼしたフランク王国は、続いて現在のドイツ南部に位置するバイエルン大公領を支配下に組み込み、現在のハンガリーのあたりを拠点としていたアヴァール人たちを倒して服属させます。

 

このほか、カールの戴冠の直接のきっかけとなった人物を見ておかなくてはなりません。

 

それが、カールの戴冠式を執り行ったローマ教皇レオ3世。797年に政敵に襲われたこの教皇は、カールを皇帝にすることにより、自分の立場が改善されることを願ったのでした。

 

共同体としてのヨーロッパ

 

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カール大帝 (アルブレヒト・デューラー画/Germanisches Nationalmuseum蔵) ©Public Domain

 

 800年にローマ皇帝として戴冠されたフランク王のカロリング家カール。

 彼の戴冠によってヨーロッパは一つの共同体となったのですが、カールの帝国には二つの大きな特徴があったのです。

 

そのうちの一つが、カールの帝国が 世界を統一する「普遍的な帝国」という性格を持っていたこと。これは5世紀にゲルマン民族の大移動によって崩壊した、西ローマ帝国を継承するものでした。

 

二つ目が、皇帝がキリスト教の守護者として存在していたということ。彼の戴冠式が皇帝レオ三世によって行われたことは、キリスト教の権威が皇帝の力の拠り所であることを示すものでした。

 

カロリング・ルネサンス

 

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カロリング・ルネサンスたる言葉がありますが、ご存知でしょうか?

 

これは実は、カール大帝が学芸を推奨して生じた文化運動なのです。

ラテン語を十分に習得していない聖職者が多くいることに危機感を感じたカールは、彼らの教育に力を入れて教会をさらに発展させていこうと考えました。

 

カール大帝によって、ヨーロッパの教会がグンと成長したんだね。

 

その通り。当時のローマ・カトリック教会ではラテン語聖書(ウルガータ訳ともいう)が正しいものと理解されていました。ですので、ラテン語の文章をうまく読めない聖職者がいることは大問題なわけです。

 

カロリング・ルネサンスの中心人物となったのは、意外にもフランク王国外の人物。

 イギリス生まれの神学者アルクィンは、カール大帝の側近として有名になりました。

 

カールの時代

 

 

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カール大帝銅像

 

カール大帝の時代、人々の立場は「自由人」であるか否かによって大きく異なりました。「非自由」は牛や豚などの家畜のようなものとして考えられていたのだとか。

 

農業社会であった当時、貴族や教会は「荘園」という土地を所有しており、この荘園に属して働く農民と、荘園に属さずに働く農民が存在しました。後者は保護を必要としながら生きることを強いられたために、「貧者」として呼ばれることもあったそうな。

 

キリスト教の影響によって非自由人の地位が向上するなど、身分の格差が平準化しつつあったカールの時代。依然として富む者と虐げられる者との隔たりは非常に大きいものだったのですね。

 

さいごに

 

カール大帝はフランス語でシャルルマーニュと呼ばれ、『ローランの歌』をはじめとしたシャルルマーニュ伝説が生まれるなど、ドイツやフランスで英雄的な存在として考えられています。

 

僕がアーヘンを訪れた際に向かったセントレ・シャルルマーニュ博物館では、彼に関する色々な書物や装飾品などが展示されていました。アーヘンの大聖堂ももちろん見所ですが、この博物館もオススメです。

 

また遊びに来てねー!

父との軋轢を経た作家 フランツ・カフカ

はじめに 

 

明けましておめでとう!

今年もよろしくです。

 

どうも、Yuです!

 

今回はドイツ文学に欠かすことのできない存在、フランツ・カフカ(1883-1924)を取り上げてお話ししたいと思います。

 

日本では、村上春樹さんの『海辺のカフカ』の大ヒットの影響で、本をほとんど読まない方でも「カフカ」という名前は知ってるよ!なんて人も多いかも。

 

 

カフカとは?

 

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プラハ(むかしはオーストリア=ハンガリー帝国の中にありました。)のユダヤ人の家庭に生まれたフランツ・カフカ

 

学生時代から読書に関心のあった彼は、ゲーテスピノザなどの著作を読んでいました。

 

大学では法律を学ぶカフカでしたが、ユダヤ人からなる学生組織「読書・談話ホール」に参加し始めます。

 

この集いのなかでカフカは、彼の作品を世界中に広めることとなるキーパーソン、マックス・ブロートと出会います。

 

父との軋轢

 

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大学卒業後、保健局にて働きながら執筆を行ったカフカ

 

1908年にはじめてカフカの小品『観察』が発表されることに。以後、短編『判決』や『変身』などの有名作品を発表していくカフカですが、これらの作品に大きな影響を与えたのは、彼の父の存在

 

父に対してコンプレックスを抱いていたカフカは、父の存在を「外からの理不尽な力」として作品に落とし込みます。

 

カフカは父に対し、便箋100枚にもおよぶ非難を込めた手紙を書き綴りますが、これが父の手にわたることはありませんでした。

 

フェリーツェ・バウアーとの出会い

 

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カフカの生涯に影響を与えた人物のうち、彼の父と同じくらい重要なのが4歳年下の女性フェリーツェ。

 

フェリーツェと知り合ってすぐに文通を始めたカフカは、最初の手紙を彼女に送った2日後に短編『判決』を一気に書き上げます。

 

この作品はカフカがフェリーツェに捧げるべく書かれたようなのですが…お相手に喜ばれる内容かどうかは、作品の内容からして個人的に微妙なところです。

 

とにかく、フェリーツェとの関係も深まって結婚が目前になると、カフカは交際を躊躇し始め婚約破棄へ。

 

数年後に再会した彼らは、再び婚約するものの、カフカ結核ゆえにこれも断念せざるを得ない状況に。結局、彼らが結ばれることはありませんでした。

 

カフカの死

 

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結核を発症したカフカは、長期療養と職場復帰を繰り返すようになります。しかしながら、年々悪化していく容態のため、結局保健局を退職することに。

 

そして、ついにウィーンの大学病院に入院することになったカフカ

 

カフカの最後の恋人ドーラや、彼の死後に遺稿三部作を刊行した友人マックス・ブロートらが彼を見舞っていました。

 

41歳の誕生日を目前にして、1924年カフカはこの世を去ります。

 

主要作品たち

 

『変身』(1912)

 

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カフカの作品の中では、たぶん最も有名な小説。

 

物語の主人公グレゴール・ザムザと同様に、出張の多い保健局での仕事に追われていたカフカは、その合間を縫ってこの作品を完成させました。

 

販売員として働くグレゴールは、ある朝目が覚めると自分の体が巨大な虫に変わってしまっていることに気づきます。

 

もはや彼は人間の言葉を発することすらできませんでした。

 

妹から世話を受けながら、自分の部屋に引きこもって生活し始めた害虫グレゴール。

 

母と妹がグレゴールの部屋を掃除している際、彼は母を気絶させてしまいます。父からリンゴを投げつけられたグレゴールは、このリンゴゆえに重傷を負い

 

暗い雰囲気の物語ですが、当のカフカは絶えず笑いながら作品を朗読してたそうですよ。

 

『掟の前』(1915

 

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もともとは『審判』の挿話として書かれたもの。

 

ある日、田舎から出てきた男が「」の門の前に立つ門番のもとに来ます。

このいかつい門番は、男をなかなか先に入れさせようとはしません。

 

門番に賄賂を送ったり、彼の毛皮に住むノミにとりなしを頼むなど、あらゆる手を尽くす男。

 

結局は何年も門番の近くで待ち続けることとなり、彼の視力は弱まって行きます。

 

死を間近にした男に、門番が最後に語りかけた言葉とは

 

とても短いお話ですが、その内容にはカフカ独特の深みがあって、僕のお気に入り。

 

『審判』(1925)

 

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遺稿を焼却するようにと言い残してカフカが世を去ったのち、友人ヨーゼフ・ブロートが彼の意向を無視して勝手に編纂して勝手に刊行した三つの未完作品のうちの一つ。

 

銀行支配人のヨーゼフ・Kは30歳の誕生日の朝、二人組にいきなり捕らえられます。

罪を犯した記憶のない彼は、審理にかけられるも、なんとかして身の潔白を証明しようとします。

 

裁判がどのように進行しているかは隠されたままであり、彼の不安は募るばかり。

 

31歳の誕生日の前夜、二人の男性に再び連れ去られたヨーゼフ・Kはついに…

 

 さいごに

 

カフカが暮らしたチェコでは、ドイツ人とチェコ人とユダヤ人が混在していました。

 

ドイツ文化やユダヤ文化にうまく馴染めないと感じていたカフカの心情には、常に疎外感のようなものがあったそうです。

 

こうした背景が、カフカの作品を読むときに感じる、どこか(というか、かなり)掴みどころのない困惑を生み出す要因になったのかも。

 

暗いなかでもクスッと笑えるようなユーモアをぜひ味わってみてください。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

爆竹鳴り響く! ドイツの大晦日

はじめに

 

今年ももうすぐ終わりだね。

ドイツと日本の年越しを比べてみると面白いよ!

 

どうも、Yuです!

晦日・新年は皆さまどうお過ごしですか?

ドイツでは、依然として厳しいロックダウンの状態なので、例年のようにお祝いすることができません。

 

ドイツの大晦日ジルベスター(Silvester)と呼ばれ、いつもならパーティやら花火やらで大賑わい。その分、今年はとても淋しく感じます…

 

今回はぜひ、このジルベスターの過ごし方についてみていきましょう!

 

ジルベスターとは?

 

名前の由来

 

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まず浮かぶ疑問は、ジルベスターという名前の由来について。

なぜ大晦日にこのような名前がつけられたのでしょう?

 

ジルベスターとは実は、ローマ教皇ジルベスター1世の名からとられたものだったのです。

 

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この教皇は335年12月31日に崩御した人物で、カトリックでは聖人として扱われているのです。そのため、12月31日はジルベスター1世を祝う日となったのですね。

 

ちなみに、日本の「晦日」という語の由来についてご存知ですか?

晦日」というのはそもそも、月が隠れる「」の日という意味で、「つごもり(月隠り)」とも呼ばれるそうな。

 

新月を1日とすると、月が隠れるのが大体30日であったことから、月の最終日が「晦日」と呼ばれるようになりました。そして、一年を締め括る12月31日は「大」をつけて「大晦日」と呼ばれるようになったのです。

 

花火と爆竹

 

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ドイツのジルベスターといえば、街中に鳴り響く花火や爆竹。

その激しさは、「ここは戦場なのでは?」と錯覚してしまうほど。

 

花火は催しにピッタリな感じもするので、特に違和感は感じませんが、なぜ爆竹が用いられるのか。その理由は、花火や爆竹がもつ大きな音にあります。

 

かつて、大きな音で悪魔や悪霊が追い払われるという言い伝えがあったため、花火や爆竹が用いられるようになったのです。それ以前は、食器を叩いてみたり、教会の鐘を鳴らしたりしていたのだとか。

 

大きな音が町中で鳴らされるのには理由があったんだね!

 

教会の鐘も高らかに鳴り響きますが、これもやはり同様の意味が込められているようなのです。ちなみに、日本では除夜の鐘が108回鳴りますが、これはある説によれば煩悩の数を表すらしいですよ。

 

花火のクラス分け? 実は、ドイツでは花火はクラス分けされていて、合計で4つのクラスが存在します。僕ら一般の人が使える花火はクラス1と2のもの、一年中販売されていますが、それ以上のものは使用が認められていません。さらに、クラス2の花火は18歳未満は購入できず、販売されている期間はジルべスターの前の三日間のみと、かなり制限が厳しめ。

 

さいごに

 

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ドイツではこの時期になると、日本と同様に「良いお年を!」と互いに呼びかけ合います。

 

いろいろな年末の挨拶がある中で、僕にとって印象的だったのが「グーテン ルッチュ インス ノイエ ヤー」というもの。

 

これを文字通りに日本語にすると、「新年にうまく滑り込んでね!」となりますが、この表現が生まれた経緯についても諸説あります。

 

とにかく、来年が皆様にとって素敵な年になりますように。

 

来年もよろしくです!

平和主義者 ヘルマン・ヘッセ

はじめに

 

ヘッセの作品は日本でも有名だね!

そうだね。とくに、『車輪の下』を読んだことのある人は多いかも。

 

どうも、Yuです!

クリスマスが終われば、もう年越しですね...はやいなあ。

 

今年最後のテーマはヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の生涯と彼の作品についてです。

 

車輪の下』のほか、『デミアン』の作者として有名なヘルマン・ヘッセ

彼は第一次世界対戦にさいして、反戦の立場を鮮明にしたドイツ人作家でした。そして、「自己の内面世界の探究」がこの作家にとっての一つの大きなテーマ。1946年にはノーベル賞を受賞してます。

 

ではでは、ヘッセの人物像と彼の代表作品について見ていきましょう。

 

 

ヘッセの生涯

 

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苦痛多き少年時代

 

南ドイツにあるカルフという街に生まれたヘッセ。神学校に入学するも、半年間で脱走してしまった彼を待っていたのは、なんと悪魔払い。これといった効果もなく、続いてヘッセはリボルバーで自殺を試みますが、これに失敗したヘッセは精神科病院に入れられてしまいます。

 

なんとも壮絶な少年時代だなあ...

 

結局彼は退院することができたものの、そののちに入学したギムナジウム(日本で言うところの中等一貫教育機関のようなもの。)もすぐに退学。書店員見習いになるも、3日で脱走してしまう有り様。このヘッセの経験は、のちに紹介する名作『車輪の下』におおいに用いられることになるんです。

 

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作家デビュー

 

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ヘッセは錠前師や書店員などの職を転々とし、その間に詩や小説を書き始めます。1904年に書いた彼の『ペーター・カーメンチント』は、ヘッセの作家としての地位を確立させました。

 

さらに、自身の精神分析を経て、内的葛藤を表現するための「ことば」を手に入れたヘッセは、1919年に『デーミアン』を執筆。この作品は戦後のドイツ青年らからの大きな反響を呼び起こしました

 

平和主義者として

 

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平和主義者でもあったヘッセはナチス政権から目の敵にされます。そのため出版も滞り、苦境に立たされたヘッセが最後に書き上げたのは長編小説『ガラス玉遊戯』。この作品は、音楽や数学などが融合した「遊戯」の達人ヨーゼフ・クネヒトがある日「未知の義務」に喚ばれるというもの。

 

実は、この作品をヘッセは当時、ほとんど盲目の状態で書き上げたのだとか。1943年にスイスで発刊されたこの作品は、1946年にノーベル賞が授与されました。

 

主要作品

 

車輪の下』(1905)

 

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天才的才能を持つハンスは、神学校での成績はトップクラス。周囲の期待を背負うなかで、彼は次第に疲弊していき、その成績は急降下していきます。この頃から倦怠感や頭痛に苦しめられていたハンスは、ついに神学校を退学することとなりますが、自宅でも彼が抱く物憂さは募るばかり。そこでハンスは自殺を試みますが...

 

『デーミアン』(1919)

 

暗い戦時下にあって、ヘッセがささやかなユートピアを構想して書かれた小説。作品発表時はエミール・シンクレールという著者名のもとで刊行された本作品は、批評家の文体分析によって、ヘッセの手によって書かれたものであることがわかりました。

 

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この物語は主人公エミール・シンクレールの視点から語られ、そのなかで彼の少年・青年期の様子が描かれます。幸福な少年時代を過ごしたシンクレールが、友人デーミアンと出会い、少年時代の葛藤を克服しながら己の使命に目覚めていくというもの。

 

『荒野の狼』(1927)

 

この物語の主人公は年齢50歳前後の市井の知識人ハリー・ハラー。彼は自分の中の「人間」と「」の二つの要素の間にいると感じていた彼は、ある日「荒野の狼についての論考」という小冊子を手に入れます。そのなかで、ハリーが今まで抱いてきた自己像が誤りであるという記述を読んだ彼は…

 

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この作品は、現代人の極度に分裂した自我のありようを示したものなのだとか。興味深いのは、この分裂を解決すべき処方箋として「笑い」や「ユーモア」が持ち出される点ですね。

 

さいごに

 

ヘッセは僕がドイツ文学を学び始めてから比較的すぐに読み漁った作家さんの一人。

 日本での人気も高いので、ヘッセ好きな仲間を探すのはそれほど大変じゃありませんでした。

 またいつか、彼の個々の作品について詳しくまとめられたらと。

 

 来年もたくさんの本が読めると嬉しいですね。良いお年を!

 

知っておきたい! ドイツのクリスマス

はじめに

 

クリスマスといえばケーキ、ツリー、プレゼント♪

日本のクリスマス文化の多くはドイツが起源なんだよ!

 

どうも、Yuです!

今日は待ちに待ったクリスマス♬

ということで、ドイツのクリスマス文化の歴史についてまとめてみました。

 

クリスマスの起源について詳しくなれば、10倍楽しめるはず?

では、さっそく見ていきましょう。

 

 

クリスマスの歴史

 

クリスマスの起源

 

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一般的に、日本では12月25日はイェス・キリストの誕生日であると誤解されがちですが、実際は彼がこの日に生まれたという明確な記述は残されていません。

 

クリスマスはそのため、キリストの誕生を祝う日として定められているのですが、なぜこの日付なのでしょう。

 

一つの有力な説によれば、古代ローマにおけるミトラ教がクリスマスの起源となっていると言われています。この宗教では、冬至の日に太陽が死に、その翌日に太陽が復活すると信じられており、その復活を祝う習慣がキリストの降誕を祝うことに移行していったのだとか。

 

ドイツのクリスマス

 

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6世紀半ばごろからイタリアのローマにてクリスマスのミサが開かれていましたが、この習慣が現在のフランスやベルギーなどが位置するガリア地域に流入してきます。

 

こうしたミサに出席してクリスマスを祝うため、フランク王国の王カールサン・ピエトロ大聖堂へ向かいます。そして記念すべき800年12月25日、カールはローマ教皇レオ3世から皇帝の称号を与えられ、この出来事はカールの戴冠として呼ばれるように。

 

この出来事は、クリスマスのミサの慣習が現在のドイツに位置する地域に広がるための大きなきっかけとなったのです。カール大帝キリスト教文化とゲルマン文化の融合を体現した重要な人物ですが、彼についてはまた詳しく書いていこうと思います。

 

クリスマスのいろいろ

 

クリスマスツリー

 

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クリスマスといえば、煌びやかなツリー

ドイツのどの家庭でも、クリスマスの時期はこのツリーを家の中や庭に飾ります。日本でもこの文化はすっかり浸透していて、僕の実家でも飾ってありました。

 

クリスマスツリー誕生の由来は、中世ドイツで行われた「アダムとイブ」の劇。そこで使用されていた樹木に由来して、クリスマスツリーは誕生したのです。

 

ある説では、ゲルマンの民が改宗されるとき、彼らの樫に対する樹木信仰が強かったため、樫からモミの木へと変えて教化したそうなのです。

 

 

プレゼント

 

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クリスマスプレゼントの交換も重要なイベントの一つですよね。

このクリスマスの文化は、どうやらドイツのビーダーマイアーと呼ばれる文化から生まれたようなのです。

 

point! ビーダーマイアー(Biedermeier)とは、19世紀前半のドイツやオーストリアを中心に発展した文化で、僕の学ぶドイツ文学の中でもビーダーマイアー文学として登場します。この文化を簡単に説明するならば、身近で質素なモノに目を向けようという考え方から生まれた市民文化なのです。

 

ちなみに、ドイツでは12月6日は「聖ニコラウスの日」と呼ばれ、子供たちのところに聖ニコラウスがやってきてプレゼントを置いていきます。日本とは違い、12月24ではなく、5日に靴下を吊るすのが一般的。

 

じゃあ、サンタさんはいないのかな?

 

ご心配なく、サンタさんもしっかりいます。ですが、どちらかというと24日には「クリスト・キント」と呼ばれる天使がやってきて、子供たちにプレゼントを渡すみたい。

 

クリスマス・マーケットについて

 

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今年は残念ながらお預けとなってしまいましたが、ドイツのクリスマスの醍醐味といえばクリスマス・マーケット。この文化はどのように生まれたのでしょう?

 

ドイツで一番最初のクリスマス・マーケットは、1393年に行われたフランクフルト・アム・マインのマーケットだそうです。1434年にドイツのドレスデンで開催されたマーケットの説も有力。

 

ですが、実際に「クリスマス」という名前のついたマーケットが開催されたのは、1628年にニュルンベルクで催された「クリストキンドルマルクトChristkindlmarkt(クリスマス市)」。17世紀からマーケットの規模は大きくなり、現在のクリスマーケットへと変わっていきます。

 

 

さいごに

 

さて、ここまでクリスマス文化の歴史についてみてきました。

いままでなんとなく親しんできた文化の背景を学ぶのは楽しいですよね!

 

今年は楽しめなかったドイツのクリスマスイベント、来年こそはぜひ満喫できるように祈っています。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

「自由」を生きた詩人 シラー

はじめに 

 

シラーの名前もゲーテと同じくらい聞くけど、何を書いた人なの?

ベートーヴェンの第九の詩を書いた作家として有名だよ!

 

前回はゲーテの生涯についてまとめたのですが、この人物とフリードリヒ・フォン・シラー1759-1805は切っても切り離せない間柄。

  

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yu-deutsch.hatenablog.com

 

point! ドイツ文学における「ロマン主義」というのは、人間の感情や主観を大事にして、魔法の存在も認めて、その勢いで世界を丸ごと芸術にしてしまおうという思潮。対して「古典主義」というのは、ローマやギリシアの芸術を高く評価するもの。「古典主義」という言葉をドイツ人が聞くと、まず連想されるのはゲーテ とシラーの二人、さらに彼ら二人の活動の中心地となったワイマールらしいのです。

 

ではでは、さっそくシラーの人物像について見ていきましょう!

 

 

シラーとは?

 

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1794年から1805年の彼の死の日まで、ゲーテと非常に仲のよかったシラー。

イタリアの自然を直接に享受しようすることから出発しようとしたゲーテの姿勢とは違い、理想を高く掲げ、苦境にも屈しない精神の豪結さが彼の持ち味だったそうな。

 

ヴュルテンベルク公国の軍医である父のもとに生まれたシラーは、公爵の命によって強制的に軍学校に。封建的な君主主義や規律が肌に合わず、以後、自由というテーマが彼の生涯を貫く中心テーマになりました。

 

群盗とシュトゥルム・ウント・ドラング

 

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デビュー作品『群盗』の大成功とともに、シラーは一躍シュトゥルム・ウント・ドラングの旗手となるのでした。ちなみにここでいうシュトゥルム・ウント・ドラングというのは、1760年代に「人間の全的解放への欲求」のもと、一切の束縛から解放されようという思潮が文学運動へと具象化されたもの。

 

ざっくり言うならば、「理性よりも感情の方が大事だよ」って考え方だよ。

 

『群盗』がドイツで初めて舞台にかけられたとき、その反響は並大抵のものではなく、失神する観衆も大勢いたほど。

 

当時、軍学校の生徒だったシラーは公爵から領地以外に出向くことを厳しく禁じられていました。それでも自分の作品の初演を観に行くために抜け出したシラーの行動は公爵の耳に入り、独房行きに。しかも、医学書以外の執筆を禁じられるようなはめに…。

 

歴史家として

 

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三十年戦争時代の神聖ローマ帝国軍の司令官を躍動感溢れる筆致で描いた『ヴァレンシュタイン』やスペインの王太子を主人公として用いた『ドン・カルロ』などの戯曲等が有名です。

 

歴史学者としての一面を持つシラーは、三十年戦争ヴァレンシュタインなどの研究に打ち込みます。『三十年戦争』や前述の『ヴァレンシュタイン』三部作と呼ばれる戯曲群などはシラーの歴史研究の成果なのです。

 

この三部作の完成後、シラーは『メアリ・ステュアート』の執筆に取りかかり、スコットランド女王メアリとイングランド女王エリザベスの熾烈な戦いを絶妙に描き出したのでした。

シラーの最期

 

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1805年にシラーの死を知らせる誤報が流れます。

実際に彼は病床にあったのですが、結局彼の容態は回復していきます。

 

安心も束の間、ゲーテと演劇を観に行ったシラーは体調の不良を訴えて帰宅し、そのまま還らぬ人となってしまったのでした。長い長い闘病生活の中で、彼の体は至るところボロボロな状態になってしまっていたというから痛々しい。

 

最後の最後まで筆をとり続けたシラーは、死の直前まで戯曲『デメートリウス』の執筆を続けていたのでした。ちなみに、この作品の舞台は17世紀のポーランドとロシア。この作品もシラーの歴史学に対する強い関心の賜物といえるでしょう。

 

さいごに

 

さて、ここまでざっくりと見てきたシラーの生涯。

彼の作品は日本でも有名で、読んだことのある人も多いはずですね。

 

ヴィルヘルム・テル (岩波文庫 赤 410-3)

ヴィルヘルム・テル (岩波文庫 赤 410-3)

  • 作者:シラー
  • 発売日: 1957/09/05
  • メディア: 文庫
 

 

シラーの最後の作品は日本でも有名な『ヴィルヘルム・テル』。

伝説的人物のテルとスイスの独立を扱ったこの作品は、ナポレオン戦争の時代に執筆されたために、愛国的な側面が強調されることが多いのだとか。

 

この作品の主題は、先に述べたようにシラーにとって最大のテーマである「自由」。

政治的自由と人間の内的な自由が問題となっているのです。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

 

 

 

 

民主主義の基盤 ドイツ基本法

はじめに

 

ドイツ語を学んでるけど、政治についてはさっぱりだな。

ドイツ語のニュースで勉強するのがオススメだよ。

 

どうも、Yuです!

 

ドイツ語のニュースにはネット上にいろいろな種類があって、なかでもオススメなのが「ドイチェ・ヴェレ Deutsche Welle(ドイツの波)」の「 Langsam gesprochene Nachrichten(ゆっくりニュース)」です。

 

スクリプトなどもついていて、勉強もしやすいので僕の生徒さん達にも全力で勧めてます。

 

www.dw.com

 

政治システムの軸を把握しておくと、こうしたニュースなども楽しめますね。

  

ドイツの政治というと、例えば連邦制が採用されているといったような事柄が思い浮かぶかもしれません。ですが、より具体的なこととなると、なかなか分からないものです。

 

ということで、今回はドイツの政治のシステムについてみていきましょう。

 

 

 

ドイツ基本法

 

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まず最初に見ておきたいのは、ドイツの憲法である「ドイツ基本法」というもの。

1949年に交付されたこの基本法には、ヴァイマル共和制の崩壊ナチスの支配の経験が色濃く反映されているのです。

 

このヴァイマル共和政というのは、1919年に発足して1933年に事実上崩壊した政治体制のこと。この体制は、皆さんご存知のヴァイマル憲法が基盤となっているものですが、詳しくはまたの機会に紹介しますね。

 

そもそも、どうして「憲法」ではなく、「基本法」と呼ばれるんだろう。

 

いい質問です。「基本法」は本来、ドイツが東西で別れている際に西ドイツの議会評議会で制定されたもので、東西ドイツが統一されて憲法が採択されるまでの暫定的なものだったのです。

 

ともかく、基本法は民主主義の安定を守る役目を担うのですが、その中でも有名なものをいくつか下にあげておきます。

 

第1条・第20条

 

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基本法が制定されてから、かれこれ50回以上の改正が重ねられていますが、基本権や民主主義に関する諸原則の変更を行うことはできません。

 

ここで注目しておきたいのが、第1条に明示されている「人間の尊厳の不可侵」、さらに第20条に記されている「ドイツは国民に主権がある民主国家である」という言葉。

 

これらの条項には、先に紹介したヴァイマル共和政の破綻とナチス・ドイツ台頭への反省が色濃く表れていますね。

 

建設的不信任決議

 

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議会に選出される連邦首相(例えば、メルケルさん)の権限が強化されるうえ、議会の過半数が新しい首相を選出しない限り、この首相は解任されないというシステム。

 

ドイツでは連邦大統領(例えば、シュタインマイアーさん)という役職もありますが、この立場の人間は国家元首として存在するのみで、政治的な実権は持たないのです。

 

これはかつて、ヒンデンブルク大統領が強大な権力を振りかざして内閣を入れ替えたりしているうちに、ヒトラーが権力を掌握してしまったという過去を繰り返さないように制定されたのです。

 

連邦憲法裁判所

 

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基本法とセットで見ておきたいのが、連邦憲法裁判所について。権力による行為や法律が、基本法に違反しないかをチェックする役割を果たすのがカールスルーエにあるこの裁判所なのです。

 

まさに、「憲法の番人」だね!

 

過去の有名な判決をいくつか紹介すると、東西ドイツ基本条約を合憲とみなしたり (73年)、欧州連合(EUのこと)条約の批准を合憲としたり…。

戦後の政治発展に様々な形で影響を与えてきたのです。

 

さいごに

 

ここまで、ドイツの戦後民主主義がドイツ基本法を軸にどのようにして支えられてきたかを見てきました。

 

東ドイツと西ドイツが統合した後も、基本法への支持が依然として強かったために、基本法は統一ドイツの憲法として存続することとなったのです。

 

現在では、EUに関する条項なども追加され、EUの秩序と基本法の整合性をどのように確保するかというような新しい課題が生まれてきているようですね。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

天才詩人 ゲーテ【後編】

はじめに

 

ゲーテって名前は有名だけど、ドイツ人作家ってことしか知らないや。

ドイツで文学といえばゲーテ!というくらい重要な人物だよ。

 

ドイツの高校生はゲーテ作品を無理にでも読まなくてはいけないそうです。

読書が苦手な子にゲーテを読ませて、さらに読書嫌いになったりしないのでしょうか。

 

そんなことを考えていたら、こんな素敵な映画を思い出しました。

このシリーズで僕は若者のドイツ語をたくさん学べたので、おすすめ。

 


Fack Ju Goethe 2 | Schiller Gymnasium Szene

 

今回は後編ということで、前回のつづきです。

ぜひこちらも読んでみてください。

 

yu-deutsch.hatenablog.com

 

ではさっそく、ゲーテの生涯について見ていきましょう。

 

 

ゲーテの生涯(前回のつづき)

 

ワイマール時代 

 

1775年にゲーテはワイマールに到着し、偉大な精神の持ち主を側に置くことを望んだカール・アウグスト大公から厚遇されることとなります。この文化的に恵まれた地でゲーテは、自身の生涯最期の日まで暮らすことに。

 

参事官としての務めを担う彼は、ある日シャルロッテ・フォン・シュタインという7歳年上の女性と知り合うことに。彼女は7歳年上であり、なおかつ7人の子供を持つ人妻。

 

ゲーテの彼女に対する恋は非常に激しいもので、その様子は夫人に宛てられた手紙や詩に表れてる。シュタイン夫人はゲーテに宮廷作法などを教授した人物だったらしいですね。

 

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ワイマールは小さいけど、可愛くて僕のお気に入り。

イタリア旅行

 

文学活動をしばらく中断して公務をこなし、ワイマール公国の宰相となったゲーテ は、1786年に無期限の休暇を願い出ます。そして彼は予てからの憧れの地、イタリアに足を踏み入れることに。

 

現地での体験はゲーテ に強いインスピレーションを与え、彼は再び執筆活動を再開。

 

イタリアでゲーテ は『イフィゲーニエ』を完成させたほか、『タッソー』や『ファウスト断片』などを書き進め、この滞在中の日記などをもとに、30年後のゲーテ は『イタリア紀行』を書き綴っていくこととなります。

 

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クリスティアーネとの出会い

 

イタリア旅行を終えたゲーテ は、自然科学の研究に没頭し始めます。1790年には色彩学を学び始め、1810年に『色彩論』を発表することに。

 

イタリアからの帰還後に書かれた詩『ローマ哀歌』は、後のゲーテ の内縁の妻となるクリスティアーネ・ヴルピウスに宛てて書かれたもの。

 

二人の関係はしかし、彼らの身分の違いゆえに社交界からの批判の的となってしまうのです。そのうえ、4人の子供を授かる彼らでしたが、そのうちの多くは早くも亡くなってしまったのだとか。

 

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クリスティアーネ

シラーとの交流

 

フリードリヒ・シラーとゲーテの親交の深さは特に有名なもの。それでも最初は、シラーの『群盗』に対して批判的だったゲーテの冷たい態度によって、ある種の反感意識がお互いの間にありました。

 

しかし、シラーの考えが自身のものに近づいていることを感じたゲーテは、シラーに対する距離を縮め、1796年には詩集『クセーニエン』を発表するまでの仲の良さに。

 

2人は以後、シュトゥルム・ウント・ドラングに続く古典主義を確立させていきますが、この古典主義はシラーの死をもって終わると考えるのが一般的です。

 

彼らの間で交わされた書簡の数は11年間で1000通を超えるほどの相思相愛ぶり。

 

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シラーがいなければ、ゲーテの超傑作『ファウスト』も完成しなかったらしいよ。

 

 

ナポレオンとの対面

 

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1808年にエアフルトという街でゲーテは、あのナポレオンと歴史的な対面を果たします。『若きウェルテルの悩み』を遠征の際に携帯し、7回読むほどこの作品を愛していたナポレオンは、ゲーテと会った際に「ここに人あり!」と叫んだのだとか。

 

このほか、ゲーテはベートーヴェンに対面しています。ベートーヴェンはゲーテの詩を用いて作曲したうえ、ウィーンの宮廷劇場の委託によりゲーテの『エグモント』の序曲を作曲するなどしていたようです。

 

ゲーテの晩年

 

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ゲーテ の求愛をひらりとかわすウルリーケ



腎臓を患ったゲーテは、湯治に足繁く通うようになります。1806年には彼が長年携わってきた『ファウスト』第一部を完成させました。翌年彼は18歳の娘に恋をし、この体験からゲーテは『親和力』を執筆します。

 

1821年には湯治場で出会った17歳の娘に恋をしますが、当時のゲーテは彼女より60歳も年上のご老体。アウグスト公を通じて求婚するも、あっけなく散ります。

 

ゲーテの最期

 

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一人息子のアウグストを亡くしたゲーテは、その年『ファウスト』第二部を書き終えました。「もっと光を!」という言葉を残してその生涯を終えたということです。

 

そのことの真偽に関しては色々と議論の余地があるみたいですが。彼の墓はワイマル大公墓所、生涯の友であったシラーの墓の隣に置かれました。

 

思うこと

 

ここまでゲーテ の人生について駆け足で見てきたわけですが、まず目を惹くのは、ゲーテ が殊更に恋愛に全力を注いでる点ですかね。この点ってゲーテ 作品の中ですごく重要で、彼の折々の恋愛が作品に様々な形で昇華されていく過程は興味深いものです。

 

大作『ファウスト』のグレートヒェンや、彼女に起こる悲劇などは、ゲーテ が彼の青年期の恋愛から着想を得たものですし、『若きウェルテルの悩み』はシャルロッテへの恋無くしては生まれなかったことは間違いありませんね。

 

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『ウェルテル』に全力ではしゃぐ当時の「イマドキ女子」

 

ウェルテル効果など、作品が読者層に与えた強い影響力も見逃せません。

 

このウェルテル効果というのは、現代でも使われているようなメジャーな言葉ですが、これはもちろん『若きウェルテルの悩み』の主人公に倣ってドイツの若者の多くが銃殺自殺を遂げたことに由来します。

 

また、当時の若者は「褐色の長靴と黄色のベスト、青色のジャケット」というウェルテルそっくりの服装をして自殺を行ったとのこと。

 

さいごに

 

ゲーテの生涯については、1833年に完成された自伝『詩と真実』に詳しくまとめられていて、興味がある人は読んでみるのもいいかもしれません。(ただし、正直長くて通して読むのがしんどかった記憶がある。)

 

詩と真実 (第1部) (岩波文庫)

詩と真実 (第1部) (岩波文庫)

  • 作者:ゲーテ
  • 発売日: 1997/05/16
  • メディア: 文庫
 

 

その中で印象的だったのは、ゲーテの幼少期に関する描写。この箇所を読むだけで、彼が詩人として花を咲かせ、文学史にその名を刻む素質を幼いころから持っていたことがわかります。

 

彼が生きた18世期後半には「天才」という概念が流行ったのですが、ゲーテはこの概念を体現する天才だったのです。

 

ここで紹介した数々の恋愛を、詩作の原動力に昇華していくさまは、もう圧巻。

 

最後まで読んでくれてありがとう!