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どいつの話。

文化、文学、暮らし、その他いろいろ…

僕とドイツ語と文学

はじめに

 

どうしてドイツ語や文学を学んでいるの?。

そのことについて、今回は自己紹介も兼ねてお話しするね。

 

こんにちは!Yuです。

 

現在は一時帰国中ですが、日本の大学院に在籍しながらドイツのミュンスターという街で文学の研究をしています。

 

ということで今回は、僕がドイツ語を学び始めたきっかけや、文学研究者を志すに至った経緯などを書いていこうと思います。(しばらく前に書いた記事に修正を加えたものです。)

 

ドイツ語を始めたきっかけ

 

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大学からドイツ語を学び始めた僕ですが、そもそもなぜこの言語を学び始めたのかをよく友人から訊かれます。

 

入学当初、僕が学部時代に通っていた大学が提携していた交換留学先が多くなく、その中で唯一魅力的だったのがオーストリアウィーン大学だったから…という単純な理由だったのです。

 

世界史が好きだった僕は、ヨーロッパへの関心も強めでした。さらに、ウィーン大学から毎年送られてくる留学生との交流も僕を刺激し、「さらにドイツ語を上達させてコミュニケーションに磨きをかけたい!」という意欲も湧きました。

  

ドイツ文学を学ぶこと

 

テクストをドイツ語で読む?

  

僕が大学一年生のころ、英語の先生のある一言が、僕の心に刺さりました。とはいえ、僕が直接聞いたわけではなく、友人から聞いたのですが。その先生は、僕がドイツ文学を専攻しようとしていることについて、こう言ったそうです。

 

トーマス・マンなんて、英語で読めるでしょ?

 

たしかに、作品を楽しむのにわざわざ原文で読む必要はないし、マンの作品なんて日本語訳も豊富にあって英語すら必要ない。ですが、本当にこの考え方は正しいのでしょうか?

 

作品の内容を理解するというためだけなら、ドイツ語で何時間もかけて(場合によっては、何十時間も)一つの本を読了する必要はないのかもしれません。ですが、本当の意味で作者が伝えようとしていることを汲み取るためには、状況がかなり変わってきます。

 

ある作品について深く論じるためには、原文と向き合い、文章のニュアンスや、そこに含まれる単語の意味合いについて考えていかなければなりません。文学を学ぶということは、ただ読むこととは違うものなのです。いずれにせよ、この先生の発言を耳にしたことが、ドイツ語を学ぶ意義について考え始めるきっかけになったのかと思います。

 

ドイツ文学への関心

 

僕が学部生時代に通っていた大学では、第二学年から専門に別れました。ドイツ文学を専攻として学び始めた頃は、正直なところ文学を読むということよりも、ただドイツ語の習得に意識があったように思います。当時の僕にとって、文学は単にドイツ語を上達させるためのマテリアルであって、文学そのものに強い関心があったわけでもない。

 

ウィーン大学にて一年間学ぶ機会を得た僕は、早速現地のドイツ文学科の授業に参加することに。予想通り、先生が何を言ってるのかわからずじまい。それでも、レコーダーを購入して教壇の上に置かせてもらい、何度も繰り返し聞いてなんとか内容を把握してました。

 

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ウィーン大学の図書館

 

ウィーン大学にて他の学生とともに文学を学ぶ機会を得られたことは、僕に文学への新しい視点を与えてくれたように思います。ゼミや授業に参加して、現地の学生らの文学に関するディスカッションに参加するたびに、僕の文学に対する考え方がガラッと変わっていったのです。

 

文学からドイツ語を学ぶことはとても素晴らしいことです。ですが、それだけではもったいない。文学を通して、作家と歴史・思想の関わりを理解し、何か自分の人生にとって大切だと思えるものを学びとることができれば、文学が持つ価値は何倍にもなると僕は考えます。そしてさらに、作家が用いた言語をそのまま理解できれば、文学を学ぶ楽しみも増していくはずです。

 

こうした考えに僕を導いてくれたのは、大変ながらも充実した留学生活でした。

  

文学研究者を目指して

 

大学院への進学

 

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ウィーン大学のドイツ文学科での経験を通して文学への関心も一層強まり、当時学部生だった僕は、帰国後はぜひ修士課程に進みたいと決めました。交換留学中、ウィーン大学の博士課程に在籍していた先輩に、彼の博士論文に関する口頭試問会に誘ってもらったこともまた、自分の進路に大きな影響を与えてくれたと思います。

 

試問会で行われた議論の内容は当時の自分にとって(今も理解できるか不安だけど)難しく、全く把握できませんでしたが、いつか自分もその先輩のように、自らの研究についてディスカッションを行いたいと考えるようになりました。帰国後、指導教官からの勧めもあり、他大学の大学院に進学し、修士課程だけではなく博士課程への進学を志すに至ったのです。

 

文学研究を続けること

 

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宗教改革関連の文書

 

卒業論文を書き上げたあと、他の大学の修士課程に進学し、新しい環境で文学研究を続けることに。その後博士課程にまで進み、文学研究に専念することになりました。現在では、13世紀から17世紀の文学作品を中心に研究を進めています。

 

この時代の作品、特に16世紀後半から17世紀のもの(バロック文学)は、日本ではほとんど研究が進んでおらず、翻訳などもかなり少ない状態です。当時の作品を読み進めるためには、大学で学ぶ文法だけでは全く足らず、その難解さはとびきり。それでも、あえてこの分野に携わるのは、自分にとって興味深い作品があるのはもちろん、他の日本の研究者たちが触れてこなかったテーマを開拓していくことができるため。

 

僕にとってのドイツ語学習とは、作品を理解するためのツールを強化するだけでなく、遥か昔の時代・地域の人々の文化にアクセスするための手段を増やすものなのです。そして、僕に研究を進めることの意義や楽しさを教えてくれるもの。僕の研究を通して、いつかこの中世やバロックの文学作品に関心を抱く人たちが増えてくれたら嬉しいと思います。

 

さいごに

 

僕が昔住んでいた学生寮で、第二言語を学ぶ意義について書かれたポスターを見つけました。そこには、「言語を学ぶことで、新しい視野を獲得できる。」といった文章が。確かにその通りなのです。僕の全く知らなかった世界が、ドイツ語のレベルが高まるにつれ、開けてきたように思います。

 

今でも研究を続けることができているのは、文学に対する関心はもちろん、「ドイツ語が好きだ!」という気持ちがあるからだと思います。ドイツ語は僕にとって、研究を進めるツールである以前に、僕を育ててくれる良きパートナーであると言えるでしょう。研究のみならず、あらゆる仕事や学びの中で、ドイツ語への関心や愛情を持ち続けていくことが、物事を継続させる鍵なのかもしれませんね。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

「お母さん」の名を持つ首相! アンゲラ・メルケル

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ドイツでは、9月の総選挙に向けての準備が進められているみたいだね。

4月はCDU・CSUキリスト教民主・社会同盟)からの候補をめぐって議論が起こったよ。

 

2005年から連邦首相を務めてきたアンゲラ・メルケルAngela Dorothea Merkel, 1954)が、今年の秋に政界から引退するそうです。

 

状況を冷静に判断して政策を進めていく彼女は、「お母さん」などと慕われ、欧州のリーダーシップをとってきました。今回はぜひ、彼女の経歴や政治の活動について見ていくこととしましょう!

 

 

アンゲラ・メルケルとは?

 

生まれと経歴

 

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ハンブルクルター派プロテスタントの家庭に生まれたアンゲラは、1954年に東ドイツへ家族とともに移住します。ちなみに、彼女の父は牧師であり、母はラテン語と英語の教師でした。

 

学生時代のアンゲラの成績は非常に優秀で、1973年にはカールマルクスライプツィヒ大学に入学し、物理学を専攻します。彼女は後に、科学アカデミーに就職したのち、博士号を取得するほど、研究に専念していたのでした。

 

政治家への転向

 

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学生時代、アンゲラはドイツ社会主義統一党SED)の下部組織である自由ドイツ青年団に属していましたが、大学への入学以降、彼女が政治的活動に専念している様子はありませんでした。

 

どうして政治家になろうと思ったんだろう。

 

アンゲラを政治へと導いたのは、彼女が目の当たりにしたベルリンの壁崩壊だったのです。壁の崩壊以降、彼女は科学アカデミーを退職し、「民主主義の出発」(DA)の結党メンバーになり、報道官を務めました。

 

「民主主義の出発」(DA)はドイツキリスト教民主同盟(CDU:西ドイツのものとは別物で、ドイツ民主共和国、別名東ドイツに存在した政党。1990年のドイツの統一後に両党は合流しました。)と政党連合を組んでいました。

 

そのため、アンゲラはCDUの党首ロタール・デメジエールの目にとまり、彼のもとで副報道官としても活動したのです。

 

党首になるまで

 

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ドイツの再統一の直前、西ドイツのCDUの党大会にて、CDU党首のヘルムート・コールと初めて出会ったアンゲラは、統一後にCDUに入党します。

 

デメジエールが辞任したのち、アンゲラは連邦代表代理に就任。

 

1998年の連邦議会選挙を境にコール政権が終幕を迎え、コールに継いでCDU党首に就任したヴォルフガング・ショイブレもまた献金問題で党首を辞任。当時CDUの幹事長だったアンゲラは、ショイブレの後任として党首に就任するのでした。

 

首相への道

 

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恩師であるコールに可愛がられていたため、「コールのお嬢さん」などと呼ばれ、コール政権時代には有力視されていなかったメルケル

 

しかし彼女は、次第に党内の権力基盤を強固なものにしていき、SPDドイツ社会民主党)と同盟90/緑の党の連立与党の不人気も手伝って、CDUはますます勢いを増していきます。

 

2005年の連邦議会選にて、初の女性首相候補としてCDU/CSU連合を率いるメルケルSPD/緑の党連合の代表ゲルハルト・シュレーダーを僅差で破り、協議の末に第8代連邦首相に就任しました。

 

首相として

 

連立の動き

 

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アンゲラが首相に就任して直後は、60%という高い支持率でしたが、シュレーダー政権にて悪化したアメリカとの関係を修復することにより、彼女の支持率は80%まで押し上げられました。

 

2009年の総選挙で勝利したCDU/CSUは、SPDドイツ社会民主党)との大連立を解消したうえで、FDP自由民主党)との連立を組むこととなります。ですが、2013年に行われた総選挙にてFDPが惨敗したため、この連立は解消されます。

 

CDU/CSUSPDとの協議の末に再び大連立を組むことととなりました。そして、第三次メルケル内閣が発足するのです。2017年の総選挙後にも内閣を組織することとなったアンゲラですが、2018年の10月に彼女は今後の党首選挙には出馬しないことを表明しました。

 

移民政策

 

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2015年、政治情勢の悪化などを理由にドイツに難民がEU各国に押し寄せます。アンゲラはこれに対し、人道的理由から100万人を超える難民の受け入れを認め、反対派の批判を受けることに。

 

実際に治安が悪化するなど、アンゲラは受け入れの制限などを行わざる得なくなりました。しかし、彼女の安定した政治的な手腕には定評があり、最近では昨年から続くコロナの感染症拡大を封じ込めたとして高い評価を受けました。

 

意外な一面?

 

筋金入りのリケジョであったことは、アンゲラの意外な一面の一つかもしれませんが、他にも色々な顔があるようなので、最後にいくつか紹介しておきたいと思います。

 

大のサッカーファン

 

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ドイツ代表の試合を現地に観に行くほどのサッカー好きのアンゲラ。その愛好ぶりは「12人目のドイツ代表」と呼ばれるほどだそう。2008年のUEFA欧州選手権を観戦するべくオーストリアに向かったメルケルは、野党側から「本職を疎かにしている」として批判を受けるのでした。

 

オペラ鑑賞

 

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サッカーだけではなく、オペラに関しての造詣も深い彼女は、二人目の夫であるウルリヒ・ザウアーと連れ立って鑑賞する様子が度々カメラに収められてます。

 

写真はノルウェーオスロで撮られたものですが、この大胆に開いた胸元のために、アンゲラはマスコミの集中砲火の標的になってしまうのでした。

 

さいごに

 

ここまで、長年ドイツを率いてきたアンゲラ・メルケルの生涯について見てきました。3月には、パンデミック下で国民の心に響く演説を行なった彼女ですが、これには日本からも多くの賛同の声が上がりました。

 

ワクチンの接種も進み、規制も徐々に緩和されているとはいえ、まだまだ油断はならない状況。アンゲラが残りの任期でどのような舵取りを行なっていくのか注目ですね!

 

最後まで読んでくれてありがとう!

病に苦しみ抜いた大詩人! ハインリヒ・ハイネ

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最近は、ドイツの詩に興味があるんだ。

そんな君には、まずハイネの詩がおすすめ。

 

4月もいよいよ後半に差し掛かり、新年度も本格的に軌道に乗り始めてきた頃だと思います。とはいえ、依然として大学の講義などもオンラインで、なかなか勉強にも身が入りません...

 

では早速、気持ちを切り替えて、今回はドイツの詩人を代表するハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797-1856)の生涯と、彼の代表的な作品について見ていくこととしましょう。

 

 

ハイネとは?

 

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ドイツのデュッセルドルフという街で生まれたハイネ。

 

紀行集『旅の絵』で一躍有名になった彼は、政治諷刺を行ったことが原因でドイツ当局に睨まれることに。

 

1827年に刊行され、ハイネの名を世界に広めることとなった『歌の本』は、彼の没年までに13版を重ねたのだとか。

 

晩年は脊髄の病に苦しめられながらも、『ロマンツェーロ』などの作品を書き上げました。

 

アマーリエとの恋 

 

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1797年にユダヤ人の家庭に生まれたハイネの名は、もともとハリー・ハイネというもの。このイギリス風の名前や、ユダヤ人であるために、いじめの的になってしまいます。

 

18歳になった彼は、ハンブルクにて叔父の別荘に住みはじめ、従姉妹のアマーリエに恋をしますが…結局ハイネの恋は実らず、アマーリエは裕福な地主と結婚してしまいます。

 

しかしながら、この恋はのちに、先に紹介した『歌の本』(1827)として結実するのでした。 

 

 

フランスにて

 

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ハイネがユダヤ人家庭の出身であることや、自身の政治的な見解が原因となり、ドイツでのハイネに対する検閲の厳しさは増すばかり。

 

そのため1831年フランスへの移住を決心したハイネですが、この地で彼は数多くの著名な芸術家や作曲家らとの親交を結びます。

 

フランスにてハイネはドイツのロマン主義文学や哲学を広めるとともに、ドイツ国民に対してフランスの文化に関する情報を発信していきました。

 

ドイツにおける、フランス人に対する敵意の広まりに、なんとか歯止めをかけようとする試みでした。

 

 

マティルデ

 

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1833年、ハイネはフランスにて当時18歳だったマティルデと知り合います。

 

彼女は後にハイネの妻となる女性ですが、ドイツ語を解さないゆえにハイネの詩に対する理解も薄かったのだとか。 

 

それでもハイネは、このことがマティルデが彼の名声ゆえに彼を愛していたのではないことの証として考えていたようです。

 

ただ、マティルデのお金遣いの荒さなどから夫婦喧嘩は日常茶飯事。

 

以下は『Celimene』という詩の一部

 

君の強情さや悪がしこさを、

僕はもちろん静かに耐えてきた

他の人が僕の立場だったら

とっくに君を殴り殺してたろうよ。

 

Deine Nücken, deine Tücken,

Hab ich freylich still ertragen

Andre Leut' an meinem Platze

Hätten längst dich todt geschlagen.

 

主要作品たち

 

『旅の絵』

 

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ベルリンにて文芸サロンに足を運び、多くの知識人と親交を結んだハイネ。

 

のちにゲッティンゲンで法学の学位を取得したハイネは、ハールツ地方に足を運んで書き上げた『ハールツ紀行』、散文『北海』、イタリア旅行の記録『ルッカの町』、ナポレオンを称揚した『ル・グランの書』などを『旅の絵』の表題のもとに刊行させました。

 

ドイツ・ロマン派の民謡風の詩が素朴でありながらも技巧的であったのに対して、ハイネはあえて文章を練ることを控えめにすることで、感情を強く表現する試みを行いました。

 

ローレライ

 

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ハイネを援助していた叔父が亡くなり、彼は親族間での遺産争いに巻き込まれます。

 

この頃からハイネを最後まで苦しめ続けた病の症状が現れはじめ、病床にありながらも執筆を続けますが、1856年に彼は息をひきとります。

 

ハイネが遺した数々の有名作品の中でも、ここで度々触れてきた『歌の本』はドイツ文学史上最も成功した詩集と謳われるほど。

 

この詩集に収録された『ローレライ』は特に有名で、ジルヒャー作曲のメロディが乗せられるなど、世界中で親しまれています。

 

ちなみにローレライとはライン川にある岩山を指すもので、同時にこの岩の妖精のこと。恋に失望した乙女ローレライは川に身を投げ水の精となり、歌声で漁師を誘惑して沈めます。

   

歌の本 (上) (岩波文庫)

歌の本 (上) (岩波文庫)

 

 


Heinrich Heine: Die Loreley (1824)

 

さいごに

 

今回は本当に久しぶりの投稿でしたが、ハイネの生涯と作品について見てきました。日本でも森鴎外や多くの詩人に影響を与えた彼は、国内でも馴染み深いドイツの詩人の一人と言えるでしょう。

 

ロベルト・シューマンとの深い繋がりも無視できないものですが、彼についてはまた後ほど詳しく紹介できればと思います。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

『特性のない男』を生んだ作家! ロベルト・ムージル

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オーストリアの有名な作家について知りたいな。

では、今回はムージルという作家を紹介するよ!

 

 ムージル(1880-1942)は、26歳のときに『士官候補生テルレスの惑い』(1906)を発表して作家デビューした人物。

 

ナチスの政権奪取後、スイスに戻った彼は長編小説『特性のない男』の執筆をはじめたものの、この作品はムージルの急死によって未完となります。

 

今回はこの作家の生涯と有名作品について、さっくりとみていくことにしましょう。

 

 

ムージルとは?

 

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ムージルオーストリアのクラーゲンフルト生まれの作家。最初は軍人になるための教育を受けましたが、その後は機械工学や哲学・論理学などを学んでいきます。

 

1909年から作家生活に入った彼ですが、第一次世界対戦が起きた際には士官として応召されます。戦争が終わると、続いて彼はジャーナリストとして活動しつつ、短編集『三人の女』などを発表していきます。

 

1933年にナチスが政権奪取したあと、ベルリンからウィーンに移った彼は、1938年にスイスに亡命します。亡命生活の苦難の中で執筆を続けるムージルでしたが、4年後の1942年にこの世を去ることになります。

 

経験批判論について

 

ムージルの創作の基盤をなしていたのは、どのようなものだったのでしょう。これには、ムージルが学位を取得するために打ち込んだエルンスト・マッハによる経験批判論の研究が大きく関わってきます。

 

経験批判論とは、一種の実証主義のあり方で、「純粋経験」たるものを「思考経済」に従って記述することを目的とする考え方なのです。僕もよく分かりませんが、認識の根拠から主観や客観の区別を排除していくことで得られるのが純粋経験であって、そこでは精神と物質といった対立は見いだせないと言うのです。

 

この考え方が世紀転換期のウィーンの精神界を支配しており、ムージルの作品の軸を成しているようです。ムージル関連の研究には、やはりマッハの経験批判論とムージル作品の関係を論じたものが多くありますね。

 

point! エルンスト・マッハ (1838-1916)とは、オーストリアウィーン大学で学んだ物理学者・哲学者で、超音速気流の研究分野でも大きな功績を残し、マッハ数の概念を導入した人物。ムージルの作品と関わる実証主義的経験批判理論という、なんとも難しそうな理論を提唱し、その分野での先駆者となりました。力学の発達』(1883)や認識と誤謬」(1905)などの著書を残しました。

 

『士官候補生テルレスの惑い』(1966)

 

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将校になるために陸軍実科学校に通っていたムージル

この学校にてムージルは、彼がのちに士官候補生テルレスの惑い』の中で描きだす経験をすることに。

 

この物語は、ある陸軍学校を舞台に繰り広げられる、少年たちの同性愛的な振る舞いを描き出したもの。寄宿舎生活の制約の中では、サディストとしての様相を呈するのはもはや教師ではなく、学生たちなのでした。

 

ある日盗みを働こうとして捕まった美少年ジーは、主人公テルレスの友人たちから精神・肉体的、さらには性的な罰を受けるようになります。この様子を傍観していたテルレスでしたが、次第にバジーニに対してある欲求が芽生え始め…

 

寄宿生テルレスの混乱 (光文社古典新訳文庫)
 

 

『特性のない男』

 

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第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にしたこの作品は、ムージルの名を世界的なものにしました。

 

32歳の数学者ウルリヒは、「可能性感覚」という特殊能力の持ち主。この能力によってウルリヒは「可能的なもの」について考えることができるというのです。

 

さらに彼は、人々が「特性」と呼ぶようなものを重視することなく、自らを「特性のない男」とみなします。

 

平衡運動と呼ばれる、プロイセン皇帝とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位記念式典の準備計画のなかで、ウルリヒは様々な奇妙な人々と出会っていきますが…

 

ナチスの政権奪取後に禁書扱いになってしまうこの作品ですが、 1942年にムージル脳卒中を起こしたことにより、未完のまま日の目をみることはありませんでした。

 

 

 

 

さいごに

  

もう何年も前の話。

 

交換留学でウィーンに行ったとき、オーストリアの作家が書いたものをドイツ語で読まなきゃ…と本屋で適当に手に取ったのがムージルの『テルリス』。オーディオブックを聴きながら、同時に丘澤訳を参照したりして少しずつ読んでいったけ。

 

オーストリアについても少し扱えるといいな...と思い、頭に浮かんだのがこの作家だったのです。少し難しめなワードが並んでしまったのは、この作家が持つ思想に対する僕の知識不足のせいです...。

 

また次回もお楽しみに!

再軍備から戦争までの軌跡! ナチスの政策

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ナチスの印象は良くないけど、悪い政党だったのかな?

インフラの拡充など、雇用面での好影響もあったんだよ!

 

前回、ナチスが成立するまでをざっくりと見てきました。

 

yu-deutsch.hatenablog.com

 

今回はヒトラー率いるこの政党が具体的にどのような政策を行ってきたのか、さらにはどのように第二次世界大戦が勃発するに至ったのかを紹介することとします。

 

 

ナチスの政策?

 

雇用促進

 

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雇用促進に貢献したヒャルマル・シャハト

 

ナチスの大きな功績として、積極的な公共事業による雇用の促進があげられます。この政策の中心となったのが、国立銀行総裁のヒャルマル・シャハトという人物。

 

皆さんご存知のアウトバーン(高速自動車道)の建設が法制化され、さらには民間企業の設備投資促進が進められ、景気はみるみる回復していくこととなりました。

 

農業の分野においては、消費者の反発を産んだフーゲンベルクが辞任に追い込まれ、農業専門家のリヒャルト・ヴァルター・ダレが後任となりました。彼は「血と土」という理念を掲げ、農業が民族の源泉であると論じたうえで、農産物の生産や価格などを統制下に置いたのです。

 

 

再軍備計画

 

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ヒトラームッソリーニ


 

1935年にヴェルサイユ条約を破棄し、これによって禁止されていた再軍備を推し進めていくヒトラー

 

さらに彼はラインラント(ドイツ西部のライン川沿いにある地域)の非武装の取り決めの役割を担ったロカルノ条約も破棄し、ラインラント進駐を実施。フランスを含む国際連盟に衝撃が走ります。

 

ヒトラー共産主義の脅威に抵抗すると同時に、ヨーロッパにおける自国の地位を高めようと目論みます。そこで彼がパートナーとして選んだのが、イタリアにて一党独裁制を確立していたムッソリーニ

 

この人物は当時、ドイツと同様に国際連盟を脱退してエチオピアへの侵略を進めていました。こうして、ヒトラームッソリーニ独伊協定を結ぶことに。

 

これと同時に、勢力圏を拡大させようとしていた日本との緊密な関係を作り、1936年には日独防共協定が結ばれます。ここにイタリアも翌年加わることになりました。

 

四ヵ年計画

 

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四カ年計画の公布書



 

1935年から続く再軍備政策によって、軍需工業は大きく発展し、雇用も拡大していきました。しかしながら、再軍備のための原料輸入の増大のために民間の需要に関わる輸入が圧迫されていきます。これに伴い、工業製品の輸出も制限され、慢性的な外貨不足に陥ってしまいました。

 

食糧不足が発生すると、外貨が食料の輸入に充てられることになります。これによって、軍需産業の原料輸入量が減少し、この産業は危機に陥ることになりました。急激な再軍備に批判的だったシャハトとヒトラーの間では対立が生じていましたが、36年にヒトラーは「四ヵ年計画」たるものを発表します。

 

この計画は、四年以内に陸・海・空の三軍の戦争準備を整えるもので、前の記事で登場したゲーリングに計画の全権が委任されました。彼はこの頃、空軍大臣となっていたのです。このように、当時のドイツでは大規模かつ急速な軍拡が進められていくのでした。

 

外交では?

 

オーストリア併合

 

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1938年、ヒトラーオーストリアの首相クルト・シューシュニックに圧力をかけ、同国を併合しようと試みます。首相は抵抗しますが、ヒトラーは最終的に彼を辞任に追い込み、ドイツ軍をオーストリアへと侵攻させていきました。

 

オーストリアの国民は併合に反発したのかな?

 

いいえ、彼らはこの併合に賛成していたのです。実際に、その賛否を問う国民投票ではドイツ・オーストリア領地域にて99%の賛成票が投じられることに。上の写真からも分かるように、人々はドイツ軍を熱狂的に歓迎したのでした。

 

対独宥和政策

 

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ネヴィル・チェンバレン首相

 

1938年、ヒトラーチェコスロヴァキアズテーテン地方を要求したことで、イギリス・イタリア・ドイツ・フランスによる首脳会議が開かれました。これは開催場所に因んでミュンヘン会議と呼ばれます。

 

イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は当時の状況に鑑みてヒトラーズデーテン地方要求を受け入れることにしました。これは戦争の危険性を感じ取ったチェンバレンヒトラーとの交渉を通して平和の維持を追求しようとしたもので、対独宥和政策と呼ばれます。

 

ちなみに、この一連の議論の中でチェコスロヴァキアの首相が参加・発言することは許されませんでした。

 

戦争へ...

 

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画像出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/ポーランド回廊」

 

ヒトラーの行動はさらに激しさを増し、ポーランドダンツィヒと「ポーランド回廊」と呼ばれる場所の返還を要求していきます。画像のcorridorと書かれた場所が回廊にあたりますね。

 

このとき、イギリスは先ほど紹介した対独融和政策を放棄し、ポーランドへの支援を約束します。これに対してドイツ側もポーランドとの相互不可侵条約英独海軍協定を破棄し、1939年の8月23日にドイツとソヴィエトの間で独ソ不可侵条約が結ばれました。

 

ポーランドに侵攻したドイツに対し、ついにイギリスとフランスは宣戦布告。第二次世界大戦が幕を開けるのでした。

 

さいごに

 

ナチスの内外政策と、第二次世界大戦の開戦までの流れを見てきましたがいかがでしたでしょうか?映画でも多く扱われているヒトラーですが、関心のある方は色々な作品を通して、彼の人物像への理解を深めてみるのも良いかもしれませんね。

 

第二次世界大戦以降のヒトラーの様子については、また改めて別の機会に詳しくまとめてみようと思います。最近はなかなか更新できていませんが、少しずつ書いていけたらと...

 

最後まで読んでくれてありがとです!

総統として君臨した男 アドルフ・ヒトラー 

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ナチスといえば、ヒトラーだけど...何者なんだろう?

今回は彼の生涯と、ナチスが権力を握るまでを見ていこう。

 

1939年にポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦を引き起こしたナチス・ドイツ

このナチ党の党首として君臨したのが、アドルフ・ヒトラーでした。

 

そして、このナチ党の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP)」というもの。1939年から1945年までのドイツを支配した政党だったのです。

 

今回は、ナチ党で総統と呼ばれ絶大な権力を誇ったヒトラーの生涯について学んでいきたいと思います。

 

ヒトラーナチス

 

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1889年、ドイツとの国境にあるオーストリアの街ブラウナウにて生を受けたヒトラー。実科学校を退学したのち、ウィーンにて画家を志す彼でしたが、挫折してしまいます。

 

その後、ヒトラーは1914年にドイツのバイエルン歩兵部隊への入隊を志願し、第一次世界大戦へ参加します。負傷して病院に運ばれた彼でしたが、ドイツの敗北を知り、政治家になることを決断するのでした。

 

政界へ

 

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ヒトラーは退院後に部隊の根拠地であるミュンヘンへと戻り、兵士と労働者からなる評議会組織レーテに加入します。後に極右のドイツ労働者党DAP)の働きにドイツ軍諜報部員として参加するようになった彼は、将校の政治団体「鉄剣団」の代表エルンスト・レームと出会うことに。

 

レームらはヒトラー派を形成し、次第にDAP内部を制圧するようになります。そのような状況下で、1920年に党名が国家社会主義ドイツ労働者党ナチ党)へと変更されます。

 

こうしてナチスが生まれたんだね!

 

ヒトラー政権

 

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ナチ党でメキメキと頭角を現していくヒトラー。21年の7月に党首の地位を得ます。

 

共産主義勢力による赤色革命を封じ込める必要性や、経済状況の悪化から、大衆的基盤を持つヒトラー最後の切り札として首相に任命されました。そして、彼を首相に任命した人物が当時の大統領であるパウル・フォン・ヒンデンブルクだったのです。

 

ナチ党と国家人民党の連立政権として発足したヒトラー政権でしたが、この政権は少数派内閣としてスタートします。ナチ党から入閣したヘルマン・ゲーリングは、突撃隊親衛隊を組織し、反対派をグイグイ弾圧していきました。

 

国会議事堂炎上事件

 

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首相就任演説にてマルクス主義民主主義の撲滅を宣言したヒトラー。33年の2月27日に国会議事堂が何者かによって炎上させられる事件が起きると、彼はこれを共産党の策謀と見做し、共産党メンバーを弾圧します。

 

この事件の翌日、ヒトラーは大統領に大統領緊急令を交付させます。こうして、人身の自由を始めとする、ヴァイマル憲法以来の基本的人権が停止され、さらには全国の労働組合の事務所がナチスによって襲撃されました。

 

こうした流れの中で、ヴァイマル憲法下で政権を担当した社会民主党は非合法化されてしまったんだ。

 

ポツダムの日

 

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1933年の3月にヒトラー政権後初の国会が開かれました。開催場所はベルリン郊外のポツダムという街。宣伝相という役職に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスによって開会の式典は演出されました。

 

この式典により、ヒトラー政権下のドイツがドイツ帝国プロイセンの伝統とともに引き継ぐことが印象付けられたのです。写真ではヒンデンブルクに頭を垂れるヒトラーの様子が写されていますが、これはヒンデンブルクに対し忠実な家臣のように恭しく振る舞うことで、ヒトラーの思想の危険性を隠すものであったとも言われています。

 

権力集中

 

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ヒトラーは「授権法」を国会に提出することで、国会や大統領の合意なしに政府が立法権を行使することを認めさせます。さらには、ナチ党が唯一の合法政党となるように「新党結成禁止法」が発布されたのち、労働組合が全て「ドイツ労働戦線」に組み込まれていきます。

 

その他、さまざまな形でナチスに権力が集中するような試みが行われていきますが、これらは強制的同と呼ばれるようになりました。この同一化の試みは政治の外面的なものだけでなく、国民の内面までもが同一となるように行われたのでした。

 

さいごに

 

今回はナチスの設立と、ヒトラーが大きな権力を持つに至るまでの様子紹介しました。このナチスによって第二次世界大戦が勃発し、さらにはユダヤ人の大量虐殺が起きることになるのですが、この点については次回詳しく見ていくことにしましょう。

  

またお会いしましょう!

冷戦の遺産! ベルリンの壁

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ベルリンは大きな街だけど、何があるんだろう?

今回は特に有名なベルリンの壁についてみていこう。

 

皆さんは、ドイツの首都ベルリンについて何を思い浮かべますか?

 

ベルリンにはたくさんの博物館や観光スポットがありますが、そのなかでも一際有名なのが「ベルリンの壁」です。

 

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この壁が冷戦の時に建てられたということは、おそらく多くの人がご存知かと思います。

 

ですが、果たしてなぜ、そしてどのように建てられたのでしょう?

 

今回はベルリンの壁成立から、壁の崩壊までの流れを紹介していきます。

 

 

ベルリンの壁とは?

 

ベルリンの壁とは、ドイツ民主共和国、つまり東ドイツ国境警備隊がベルリンの舗装道路を壊し、石と有刺鉄線を用いて建て上げたバリケードのことです。

 

この壁は1989年11月9日までの28年間、ベルリンの街を東西に分断していたのです。この壁の建築は、東ドイツの政府の国家機密であり、旧東ドイツ社会主義統一党(SEDの指揮のもとで行われました。

 

冷戦とドイツ分割

 

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画像出典: 産経ニュース https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51486160Y9A021C1FF4000

 

壁の成立についてみていく前に、ベルリンの分割と冷戦の関わりについて見ておくこととします。

 

冷戦の起源はロシア革命にまで遡ることができますが、これは第二次世界大戦後にアメリカ合衆国を代表とする資本主義陣営ソビエト連邦を中心とする共産主義陣営が対立する構造のことを指します。

 

実際に武器を使ったのではなく、政治的・経済的な戦いだったため、冷たい戦争と呼ばれたんだ。

 

ドイツの東西分割の直接的なきっかけとなったのは、1945年の2月に開かれた、「ヤルタ会談」と呼ばれる連合国アメリカ・イギリス・ソビエト連邦)による首脳会談でした。

 

この会談によって、戦争で敗北したナチス・ドイツはシレジアを始めとした多くの領土を失い、東側陣営ソビエト)と西側陣営(英・仏・米)の共同管理下に置かれることとなったのです。

 

こうしてドイツの国土は東西に分割されることになったわけですが、東側に位置する首都ベルリンは、さらに東西に分割されることに。結果的に、東ドイツの真ん中にベルリンの西側がポツンと位置することになったのです。

 

壁の成立

 

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さて、このベルリンの壁は一体なぜ作られることになったのでしょうか。

 

原因は、1950年から1960年にかけての東ドイツ経済状況の悪化にあります。西ドイツと西ベルリンはその当時も経済成長を続けていたため、東ドイツで暮らす人々は西へと逃げていったのです。

 

その数は毎日2000人ほどにも及び、全体では200万人もの人々が東から西へと移り住んで行きました。そして、最終的に社会主義国家の建設を志す東ドイツの政治家らは、計画が頓挫することを恐れ、壁の建設に着手したのです。

 

東ドイツの人々を逃げさせないようにするために建てられたんだね!

 

崩壊まで

 

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1989年の10月から、東ドイツの人々は反政府デモを繰り返すようになります。

そして、この頃の東欧革命の混乱のなか、SEDの報道局長に就任したばかりのシャボフスキーが記者会見を行いました。

 

東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表したシャボフスキーですが、これは事前に渡された資料が原因となった、勘違いによる発表だったのです。

 

この様子は東ドイツのニュース番組にて生放送されていたため、「西側への旅行が自由化される」と思い込んだ人々が国境検問所に殺到し、興奮した群衆による事故への危惧から、国境は開かれざるをえなくなったのでした。これが、1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」なのです。

 

壁の崩壊後

 

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壁が解放されたのち、東西を分け隔てていた国境はなくなり、翌年の1990年の10月3日に東西ドイツは再び統一されました。

 

それ以降、ベルリンの壁の一部は米ソ冷戦の象徴的な遺跡としてそのまま残されました。これが観光スポットとして人気の1.3kmも続く「イースト・サイド・ギャラリー」なのです。この壁にはなんと、24カ国の118人もの芸術家らによる壁画が描かれており、とても見応えのあるものとなっています。

 

上の写真に描かれているのは、これらの壁画のなかでもとりわけ有名な『神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせたまえ』という作品。ロシア人の画家、ドミトリー・ヴルーベリはエーリヒ・ホーネッカーとレオニード・ブレージネフのキスをとても印象的に描いています。

 

point! ホーネッカーは、旧東ドイツ社会主義統一党(SED)の書記長であり、東ドイツの指導者としての立場にあった人物。ブレージネフとは、ソビエト連邦の最高指導者で、スターリンに次いで長い期間(1964〜1982)ソ連の政権を担った。ブレージネフはちなみに、世界の首脳らと挨拶をする際に、両頬と唇にキスをする「トリプルキス」で有名でした。

 

 

さいごに

 

さて、今回はサクッとベルリンの壁について見てきましたが、ベルリンにはこの壁以外にもたくさんの観光名所があります。

 

それぞれが政治的・歴史的にとても重要なものなので、いつか紹介していけたらいいですね。僕がこの街を歩いたのもだいぶ昔なので、コロナが落ち着いたら、また散策してみたいものです。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

ナチスにペンで抗う作家 トーマス・マン

 はじめに

 

トーマス・マンの『魔の山』を読んでるんだ〜

いいチョイスだね!マンが日本人作家に与えた影響も要注目だよ。

 

どうも、Yuです!

トーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)はドイツで最も有名な作家の一人ですが、日本語訳もたくさん出ているので、日本でも沢山読まれていますね

  

ではさっそく、マンの生涯と彼の作品について見ていきましょう。

 

 

トーマス・マンとは?

 

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20世紀を代表するドイツ人作家であるトーマス・マンですが、彼の主な作品は『ブッテンブローク家の人々』(1901)や、『ヴェニスに死す』(1913)などなど。1929年にはノーベル賞を受賞しています。

 

ナチス時代にアメリカに亡命したマンは、作品執筆やラジオ放送などを用いて打倒ナチスを呼びかけました。

 

作家として

 

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北ドイツの都市リューベックに生まれたトーマス・マン。彼の両親が熱心な読書家であったことから、幼い頃から本に親しみながら育った彼は、高校を中退後に保険会社にて働きながら執筆を行っていました。

 

1893年から保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説を描き続けたマン。処女作品である短編小説『転落』が、ライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載されます。

 

1901年にマン自身の一族の歴史がモデルとなった長編『ブッテンブローク家の人々』(1902)が発表されると、この作品は非常に多くの読者を集め、マンは一躍ベストセラー作家となることに。

 

カタリーナとの出逢い

 

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カタリーナ・ヘドウィク・マン

 

マンはユダヤ系数学教授の娘カタリーナと出逢い、1905年にマンは彼女と結婚。二人の間には6人の子供が生まれますが、後にカタリーナは結核のためサナトリウム(閑静で空気の綺麗な場所に建てられる療養施設)にて療養することに。

 

療養中の様子を妻から聞くこととなったマンは、彼女の話から着想を得て、1913年に『魔の山』の執筆を始めます。当初は短編で発表される予定だったこの作品ですが、のちに構想が膨んでいったため、完成したのはずっと先の1923年でした。

 

亡命生活

 

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ナチスが台頭した1930年、マンは講演『理性に訴える』を行ってナチスの危険性を論じ、彼はナチスの敵としてみなされます。

 

1933年にナチズムの思想にそぐわない書物が焼き払われると(ナチス・ドイツ焚書)、マンはミュンヘンの文芸諮問委員会を脱退。

 

スイスにて亡命生活を送るマンでしたが、1938年にアメリカに移住することに。1940年から1945年にかけて、マンは定期的にBBCのラジオ番組『ドイツの聴取者よ!』を通じてドイツ国民に対し警鐘を鳴らし続けました。

 

作品たち

 

ヴェニスに死す』(1911)

 

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主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは50歳過ぎの小説家。

旅行先のヴェネツィアにて彼は、14歳の美少年タッジオに出会い、彼の虜となります。

 

コレラヴェネチアにて蔓延しはじめてもなお、タッジオの美に魅入られたアッシェンバッハは現地に残ることを選択しますが…

 

マンはこの作品を「品位喪失の悲劇」と呼んでいたらしく、芸術家として名声を得た主人公が少年の美しさゆえに破滅に向かう様子は、なんとも言い難い印象を与えてくれます。

 

彼の初期作品の中心テーマが、「市民と芸術家の対立」という点にあったことにも注目したいですね。

 

とにかく、ヴィスコンテの映画で登場するタッジオはイケメン。

 

魔の山』(1924)

 

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主人公ハンス・カストルは、スイスの高山にあるサナトリウムで療養中の従兄弟ヨアヒムを訪ねます。

 

当初3週間のみの滞在を予定していたカストルプでしたが、自身も結核を患っていることが発覚し、以後7年間の療養生活を送ることに。

 

サナトリウムで暮らす個性豊かな人々との交流の中で、カストルプは成長していきますが…

 

この作品は当時の読者の大きな反響を呼び、刊行から4年後には10万部の売り上げが記録され、現在までに27カ国語に翻訳されているのだとか。

 

さいごに

 

ここまで、ざっくりとトーマス・マンの生涯と作品について見てきました。僕がマンの作家として優れたところを一つに絞って挙げるとするなら、彼の作品に昇華された主題の多層性だと思います。

 

例えば亡命中にマンが著した『ファウスト博士』(1947)では、ファウスト伝説*1を下敷きに作品が書かれているだけではなくて、ファシズムニーチェに対する批判、さらには神学音楽学等の分野に関して幅広く、そして深く論じられていきます。

 

 

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

 

 

そして、三島由紀夫大江健三郎といった有名作家たちへの影響力も見逃せません。例えばマンの最も有名な作品『魔の山』(1924)は、村上春樹の『ノルウェイの森』(1987)の世界観とリンクしているので、どちらも読んでみると面白いかもです。

 

最後まで読んでくれてありがとう!

*1:15世紀ごろのドイツで実在していたとされる人物が、悪魔と契約を結んで放埒の限りを尽くし、結局地獄に落ちるというもの。

ヨーロッパ世界の生みの親! カール大帝

 

はじめに

 

カール大帝ってとても有名だけど、一体どんなことをした人なの?

彼が皇帝になったことで、ヨーロッパ世界が生まれたとも言われているんだ。

 

どうも、Yuです!

今回はかの有名なカール大帝について紹介していきます。

 

世界史でお馴染みのカール大帝は、フランク王国の王様。(在位768-814

このフランク王国は、751年から王位を継承したカロリングのもと、周辺のゲルマン諸部族を支配下に入れながら拡大していった国。

 

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この王国の支配地域はカール大帝の時に最大に達しました。

 そんな有能な彼の生涯について、今週は詳しくみていくことにしましょう。

 

 

カール大帝とは?

 

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フランク王国ピピン3世のもとで生まれたカール。 彼の出生については不明な点が多く、様々な議論が交わされてきました。特に問題となっているのは彼の生まれた年。

 

カールは742年に生まれたとされていますが、彼の父であるピピンと正妻ベルトレドの結婚は744年以降と一般的に考えられているのです。

 

この論に従えば、カールは私生児として生まれたことになり、彼とのちに生まれたベルトレドの息子カールマンとの険悪な関係にも説明がつきそうですね。研究によっては、カールが747年や749年に生まれたとする論もあるみたい。

 

カールの戴冠

 

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800年のクリスマスにめでたく皇帝となったカール。

 さて、カールの皇帝戴冠を可能にしたものは何だったのでしょうか。

 

その要因の一つが、カール率いるフランク王国が獲得してきた広大な領土でした。

 

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画像出典: https://sekainorekisi.com/world_history/カール大帝シャルルマーニュ)/

 

774年にイタリア北部のランゴバルト王国を滅ぼしたフランク王国は、続いて現在のドイツ南部に位置するバイエルン大公領を支配下に組み込み、現在のハンガリーのあたりを拠点としていたアヴァール人たちを倒して服属させます。

 

このほか、カールの戴冠の直接のきっかけとなった人物を見ておかなくてはなりません。

 

それが、カールの戴冠式を執り行ったローマ教皇レオ3世。797年に政敵に襲われたこの教皇は、カールを皇帝にすることにより、自分の立場が改善されることを願ったのでした。

 

共同体としてのヨーロッパ

 

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カール大帝 (アルブレヒト・デューラー画/Germanisches Nationalmuseum蔵) ©Public Domain

 

 800年にローマ皇帝として戴冠されたフランク王のカロリング家カール。

 彼の戴冠によってヨーロッパは一つの共同体となったのですが、カールの帝国には二つの大きな特徴があったのです。

 

そのうちの一つが、カールの帝国が 世界を統一する「普遍的な帝国」という性格を持っていたこと。これは5世紀にゲルマン民族の大移動によって崩壊した、西ローマ帝国を継承するものでした。

 

二つ目が、皇帝がキリスト教の守護者として存在していたということ。彼の戴冠式が皇帝レオ三世によって行われたことは、キリスト教の権威が皇帝の力の拠り所であることを示すものでした。

 

カロリング・ルネサンス

 

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カロリング・ルネサンスたる言葉がありますが、ご存知でしょうか?

 

これは実は、カール大帝が学芸を推奨して生じた文化運動なのです。

ラテン語を十分に習得していない聖職者が多くいることに危機感を感じたカールは、彼らの教育に力を入れて教会をさらに発展させていこうと考えました。

 

カール大帝によって、ヨーロッパの教会がグンと成長したんだね。

 

その通り。当時のローマ・カトリック教会ではラテン語聖書(ウルガータ訳ともいう)が正しいものと理解されていました。ですので、ラテン語の文章をうまく読めない聖職者がいることは大問題なわけです。

 

カロリング・ルネサンスの中心人物となったのは、意外にもフランク王国外の人物。

 イギリス生まれの神学者アルクィンは、カール大帝の側近として有名になりました。

 

カールの時代

 

 

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カール大帝銅像

 

カール大帝の時代、人々の立場は「自由人」であるか否かによって大きく異なりました。「非自由」は牛や豚などの家畜のようなものとして考えられていたのだとか。

 

農業社会であった当時、貴族や教会は「荘園」という土地を所有しており、この荘園に属して働く農民と、荘園に属さずに働く農民が存在しました。後者は保護を必要としながら生きることを強いられたために、「貧者」として呼ばれることもあったそうな。

 

キリスト教の影響によって非自由人の地位が向上するなど、身分の格差が平準化しつつあったカールの時代。依然として富む者と虐げられる者との隔たりは非常に大きいものだったのですね。

 

さいごに

 

カール大帝はフランス語でシャルルマーニュと呼ばれ、『ローランの歌』をはじめとしたシャルルマーニュ伝説が生まれるなど、ドイツやフランスで英雄的な存在として考えられています。

 

僕がアーヘンを訪れた際に向かったセントレ・シャルルマーニュ博物館では、彼に関する色々な書物や装飾品などが展示されていました。アーヘンの大聖堂ももちろん見所ですが、この博物館もオススメです。

 

また遊びに来てねー!

父との軋轢を経た作家 フランツ・カフカ

はじめに 

 

明けましておめでとう!

今年もよろしくです。

 

どうも、Yuです!

 

今回はドイツ文学に欠かすことのできない存在、フランツ・カフカ(1883-1924)を取り上げてお話ししたいと思います。

 

日本では、村上春樹さんの『海辺のカフカ』の大ヒットの影響で、本をほとんど読まない方でも「カフカ」という名前は知ってるよ!なんて人も多いかも。

 

 

カフカとは?

 

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プラハ(むかしはオーストリア=ハンガリー帝国の中にありました。)のユダヤ人の家庭に生まれたフランツ・カフカ

 

学生時代から読書に関心のあった彼は、ゲーテスピノザなどの著作を読んでいました。

 

大学では法律を学ぶカフカでしたが、ユダヤ人からなる学生組織「読書・談話ホール」に参加し始めます。

 

この集いのなかでカフカは、彼の作品を世界中に広めることとなるキーパーソン、マックス・ブロートと出会います。

 

父との軋轢

 

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大学卒業後、保健局にて働きながら執筆を行ったカフカ

 

1908年にはじめてカフカの小品『観察』が発表されることに。以後、短編『判決』や『変身』などの有名作品を発表していくカフカですが、これらの作品に大きな影響を与えたのは、彼の父の存在

 

父に対してコンプレックスを抱いていたカフカは、父の存在を「外からの理不尽な力」として作品に落とし込みます。

 

カフカは父に対し、便箋100枚にもおよぶ非難を込めた手紙を書き綴りますが、これが父の手にわたることはありませんでした。

 

フェリーツェ・バウアーとの出会い

 

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カフカの生涯に影響を与えた人物のうち、彼の父と同じくらい重要なのが4歳年下の女性フェリーツェ。

 

フェリーツェと知り合ってすぐに文通を始めたカフカは、最初の手紙を彼女に送った2日後に短編『判決』を一気に書き上げます。

 

この作品はカフカがフェリーツェに捧げるべく書かれたようなのですが…お相手に喜ばれる内容かどうかは、作品の内容からして個人的に微妙なところです。

 

とにかく、フェリーツェとの関係も深まって結婚が目前になると、カフカは交際を躊躇し始め婚約破棄へ。

 

数年後に再会した彼らは、再び婚約するものの、カフカ結核ゆえにこれも断念せざるを得ない状況に。結局、彼らが結ばれることはありませんでした。

 

カフカの死

 

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結核を発症したカフカは、長期療養と職場復帰を繰り返すようになります。しかしながら、年々悪化していく容態のため、結局保健局を退職することに。

 

そして、ついにウィーンの大学病院に入院することになったカフカ

 

カフカの最後の恋人ドーラや、彼の死後に遺稿三部作を刊行した友人マックス・ブロートらが彼を見舞っていました。

 

41歳の誕生日を目前にして、1924年カフカはこの世を去ります。

 

主要作品たち

 

『変身』(1912)

 

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カフカの作品の中では、たぶん最も有名な小説。

 

物語の主人公グレゴール・ザムザと同様に、出張の多い保健局での仕事に追われていたカフカは、その合間を縫ってこの作品を完成させました。

 

販売員として働くグレゴールは、ある朝目が覚めると自分の体が巨大な虫に変わってしまっていることに気づきます。

 

もはや彼は人間の言葉を発することすらできませんでした。

 

妹から世話を受けながら、自分の部屋に引きこもって生活し始めた害虫グレゴール。

 

母と妹がグレゴールの部屋を掃除している際、彼は母を気絶させてしまいます。父からリンゴを投げつけられたグレゴールは、このリンゴゆえに重傷を負い

 

暗い雰囲気の物語ですが、当のカフカは絶えず笑いながら作品を朗読してたそうですよ。

 

『掟の前』(1915

 

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もともとは『審判』の挿話として書かれたもの。

 

ある日、田舎から出てきた男が「」の門の前に立つ門番のもとに来ます。

このいかつい門番は、男をなかなか先に入れさせようとはしません。

 

門番に賄賂を送ったり、彼の毛皮に住むノミにとりなしを頼むなど、あらゆる手を尽くす男。

 

結局は何年も門番の近くで待ち続けることとなり、彼の視力は弱まって行きます。

 

死を間近にした男に、門番が最後に語りかけた言葉とは

 

とても短いお話ですが、その内容にはカフカ独特の深みがあって、僕のお気に入り。

 

『審判』(1925)

 

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遺稿を焼却するようにと言い残してカフカが世を去ったのち、友人ヨーゼフ・ブロートが彼の意向を無視して勝手に編纂して勝手に刊行した三つの未完作品のうちの一つ。

 

銀行支配人のヨーゼフ・Kは30歳の誕生日の朝、二人組にいきなり捕らえられます。

罪を犯した記憶のない彼は、審理にかけられるも、なんとかして身の潔白を証明しようとします。

 

裁判がどのように進行しているかは隠されたままであり、彼の不安は募るばかり。

 

31歳の誕生日の前夜、二人の男性に再び連れ去られたヨーゼフ・Kはついに…

 

 さいごに

 

カフカが暮らしたチェコでは、ドイツ人とチェコ人とユダヤ人が混在していました。

 

ドイツ文化やユダヤ文化にうまく馴染めないと感じていたカフカの心情には、常に疎外感のようなものがあったそうです。

 

こうした背景が、カフカの作品を読むときに感じる、どこか(というか、かなり)掴みどころのない困惑を生み出す要因になったのかも。

 

暗いなかでもクスッと笑えるようなユーモアをぜひ味わってみてください。

 

最後まで読んでくれてありがとう!